読書

2008年10月27日 (月)

『こんな日本でよかったね』 内田樹著

『こんな日本でよかったね』 内田樹著 ブログ「内田樹の研究室」を再構成した本でした。知らないで買ってしまいました。知っていたら、買わなかったかも知れない……。


 この本の中で最も印象的で、読後も何度も頭の中で反芻しているのが、『コミュニケーション失調症候群』(p216)の中の次の部分です。
メッセージの受信者には「複数の解釈可能性のうちから、自分にとって最も不快な解釈を選択する権利」が賦与されているということである。
 コミュニケーション感度の高い人間とコミュニケーション感度の低い人間のどちらがこの権利を活用することになるのか、想像することはむずかしいことではない。
 結果的に私たちの社会はこれから自分宛てのメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択することを政治的に正しく、知的なふるまいとみなす人間たちを量産してゆくことになるだろう。
 「自分の周りには『悪意』を持った人しかいない。自分の周りの人たちの行動の裏には、自分に対する悪意がある」 今の世の中、そう考えがちなのかも知れない。自分を振り返っても、自分のまわりの人間がとった、自分にとって不快な行動は、「自分に対する敵意が潜んでいるのだ」と考えがちのような気がするのです。でも、「悪意がある」という判断は、正当で客観的なのだろうかと疑ってみると、客観的でないような気もします。
 満員電車の通勤電車の中で「いさかい」を起こしているのを、よく見かけます。他人事ではなく、自分自身も、他人のちょっとした行動に、ムカッとすることがあります。他人が自分のことを振り返って見た、ただ後ろが気になって振り向いただけかもしれない状況でも、「睨みつけられた」と思うことがあります。なぜでしょう。
 そして、この「自分宛てのメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択する」というのは、「自分以外はみんなバカ」とういのと同根の心理なのではないかと思うのです。

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2008年7月26日 (土)

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹著

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹著 ブログ『Letter from Yochomachi 』で紹介されていて、読んでみようかなと思ったのです。でも、新書1冊をアマゾンで注文すると、送料取られるので、「今度書店に行ったら探してみよう」と思って、すぐには購入しませんでした。先日、時間つぶしの気まぐれに通勤途中の書店に立ち寄った際、「そうだ、内田樹の新書を買おうと思っていたんだ!」と思い出し、書棚を探したけれど見当たりません。買おうと思う前は、書店で見かけていたのに、いざ買おうと思った時に立ち寄った書店には置いていない。マーフィーの法則にでもありそうなことです。
 内田樹のブログをいつも読んでいます。ブログも面白いです。テレビや、自分の周りの生活圏にいる人からは聞くことのできない、ユニークな視点での社会評論が新鮮です。
 そのブログに、近著の宣伝が書かれていました。『こんな日本でよかったね』という本です。略して『こんたね』。その宣伝読んで、「これと一緒に『寝ながら学べる構造主義』がアマゾンで送料無料で注文できる!」と膝を打ち、パソコンからカタカタ入力して注文しました。
 偶然ですが、予約注文していた「ハリポタ最終巻」『ハリー・ポッターと死の秘宝』と一緒に届きました。


 のべ数時間で読み終わりました。通院している病院の待合室で読み始め、通勤電車の行き帰り1往復半で読み終わりました。やさしい文章ですらすら読めますが、引用されている原文はかなり難解。「寝ながら学べる」かもしれませんが、飽くまでも入門書。この本で得た知識を基礎に、より詳しく説明した本を読まないと構造主義を理解したとは言えないようです。「あったいまえ」ですけれど、「これだけ読めばすべてわかる」とは謳っていないし、そんなことを謳っていたらその本はインチキなのかも。
 マルクス・フロイト・ニーチェから始まり、ソシュールを紹介。そして「構造主義の四銃士」の、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース・ラカンをひとり1章づつ割いて解説しています。この系譜だけでも、きちんと構造主義を系統だって勉強したことなどない私には、ありがたい整理です。人文科学・社会科学系の一般書を読んでいれば、いやでもこれらの名前に触れるはずで、私もこれらの名前を何度となく目にしていたはずなのですが、彼ら構造主義者の思想的位置などまったく理解していませんでした。本書のまえがきで
私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。知りたくないからです。
 より厳密にいえば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。
と書かれています。私もまた、構造主義を「知りたくない」という無意識の拒絶心があったのでしょうか。これはこれで、面白い設問ですが、まだ文章に書いて披露できるほど考えがまとまりません。ただ、無意識の拒絶が心の中にあったのかもしれません。「構造主義」は、自分にとってタブーとなるような主張を含んでいると、直感していたのかもしれません。
 本書を読んでいて、内田樹のブログや何冊か読んだ本に書かれていたことが、構造主義を基礎にしていたことが、改めてわかりました。構造主義を使うと、内田樹のようなユニークな視点で社会を見ることができるのかもしれないと、感心しました。
 本書を読み終わって、内容を振り返ってみると、不思議なことに「全部知っていた」という気持ちになりました。おかしな話ですが、構造主義なんてきちんと勉強したことはないのに、本書で出てくる考え方は、何もいまさら「新しい発見」と言ってありがたく思うものではなく、常識的なことのように思えたのです。
 本書の第1章で書かれているのですが、
いま私たちが生きている時代は「ポスト構造主義の時代」と呼ばれています。(中略)
 「ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(中略)だという風に私は考えています。
 という筆者の言う通りなのかもしれません。
 なぜ、「自明なもの」になっていたのでしょう。不思議です。学問的知見が、一般庶民の「常識」にまで浸透するその機構は、どうなっているのでしょう。知らぬ間に、それを当然と思っているなんて、「洗脳」されていたのでしょうか。
『こんな日本でよかったね』 一緒に買った「こんたね」は、まだ読んでいなくて、これから読むところです。でも、「こんたね」は、ブログが元になっているようですから、もうすでに一度読んでいる文章がたくさん出てくる(すべて読んだことのある文章なのかも……)
 「こんたね」の副題は「構造主義的日本論」です。構造主義を、少し意識しながら読めば、ブログで読んだ時とは別の新しい発見ができるかもしれない。そんな期待をもって、「こんたね」=『こんな日本でよかったね』を読んでみたいと思います。

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2008年4月29日 (火)

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著

Tsukaresugite 1999年の夏に慢性腎炎が見つかり、それ以来ずっと大学病院に通っています。大学病院の待ち時間は長くて、2時間3時間は普通に待たされます。待合室では、居眠りをしているか読書をしているかのどちらかで長い待ち時間をやり過ごしています。大学病院内の構内には、街中の書店並みの広さの書店があって、そこで本を買ってから待合室へ行き読み始めることも良くあります。この本も、そのようにして、大学病院の構内の書店で買い求めて、診察室に呼ばれるまでの待ち時間に読みふけりました。
 この本は、2003年に出版された本の文庫化です。私がブログ『内田樹の研究室』で内田樹を知る以前に書かれた文章ということになります。「語り下ろし」というスタイルで作られたという本書は、ブログで読む現在の筆者の語り口と変わりません。(ちなみに、「語り下ろし」というのは、編集者に向かって話したことをテープ起こししたものに筆を加え体裁を整えるという形で本を作る形態のことのようです) 読み慣れた語り口は心地よく、その語り口を読むだけでも楽しみを得ることが出来そうです。
 本書で印象に残った逸話のひとつは、「ハンカチ落とし」についての考察です。筆者は「今の子どもたちは、生まれてから育っていく過程でどんどん身体感受性が鈍感になるような環境におかれています」(p.127)と嘆いています。しかし、それは「自己防衛上ほんとうに必要な知覚情報までとりこぼすことになりかね」ない(p.128)と言います。そのような知覚情報を磨く「子どもの遊び」が「ハンカチ落とし」です。自分の背中に落とされるハンカチを、視覚や聴覚などの五感では察知できない「何か」を察知しなければ、ゲームに負けてしまいます。その察知する「何か」というのは「鬼」の心に浮かんだ「邪念」であると筆者は指摘します。続けて筆者は「邪念」を察知するということは、何も超能力ではなく、オニやまわりの子どもたちの、緊張したときの心拍数の上昇や発汗、浅い呼吸、体臭の変化などという物理的科学的情報であると説明します。
 現代人が失ってしまった人間が本来持っている(持っていたはずの)情報検知力があるのだという話は、目新しいものではないかもしれませんが、「ハンカチ落とし」という遊びにそのような意味があったのかと思うと興味深く感じます。現代人が失ったというのと同じように、「子どものころ持っていた能力が大人になって失われてしまう」という話型にも通じています。
 この手の話に心惹かれるのは、「努力して開発する能力ではなく、もう既に本来持っているのに使っていない能力」というところに、努力するのが嫌いな怠け者には耳に心地よいからなのかもしれません。
 この本で、印象に残ったもうひとつの逸話は、「書物について」という文章で書かれている話です。インターネットの時代になってもこの先、書物はなくならないだろうという筆者の予想が述べられています。本は、自分の読んだ本が本棚に貯まってゆき、自分の知識が貯まってゆくのが実感されるということが良いところだと書かれています。私も、本棚に読み終えた本を並べてひとり悦に入っているクチですので、筆者の言うことはよく分かります。大概の本は、一度読んでそれっきり、内容も大方忘れてしまったものがほとんどです。それでも、背表紙を眺めると、ぼんやりと内容が思い出せなくも無いように感じます。
 私の心に引っかかったのは、その章のもう少し先の筆者の指摘です。

ある種の「愛読者」というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。
 さらに筆者は、次のように論を進めます。
快楽はある種の反復性のうちに存する。これを洞見と言わずして、なんと言いましょう。(中略)こういう本を作るときの要諦というのも、やはり「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」ということだと思います。
 上品な笑い話、あるいは、よく出来た落語話を聞いたような笑いを引き出されました。一歩間違えると読者を馬鹿にしたようなもの言いに聞こえなくも無いですが、そうです。まさにいつと同じ語り口の内田樹の本が読みたくて、私はこの本を買ったのですから。

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2007年4月20日 (金)

『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』 内田樹著

『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』 内田樹著 昨日、今日と通勤電車の中で読みました。
 10章あるうちの8章が、ブログの記事をまとめたもので、すでにブログで読んでいた文章も少なからずありましたが、読みやすく知的で面白い本でした。副題にあるように教育再生論、教育論なのですが、ユニークな視点、切り口で、堅苦しさが無く、先へ先へと読み進めさせる面白さがあります。『下流志向』を読んだときと同じで、途中で本を閉じるのが、もどかしく、一気に全部読んでしまいたくなります。(今回は、『下流志向』を読んだときのように、遅い時間まで読みふける事は、翌日仕事がある平日だったので自制しました!)
 「顰に倣う(ひそみにならう)」の例え話が、とても印象的でした。(第4章「大学がつぶれてしまう」どうして仏文科は消えてゆくのか

呉越の時代、呉王夫差の寵愛を一身に受けた美姫に西施という人がいた。西施は「持病の癪」のせいで、歩くときに胸を押さえ、眉をひそめていた。その姿もまた美しく見え、その柔弱たる風情で彼女が呉王の寵を得たという風説が広まったために、後宮の女官たちはこぞって眉をひそめて歩くようになり、やがて呉国中のすべての女たちが眉をひそめて歩くようになった……というお話である。
 この「顰に倣う」に例えながら、昔は社会的地位のある人は(たまたま)教養があったので、人々は皆、教養を身に付けようとしたのである。しかし、教養があることが、社会的地位を得たり高給を得る条件ではない。それは、いまも、昔も、変わらない……、と筆者は指摘します。
 なるほど、そうかもしれません。
 私もまた貧乏な庶民の家庭に生まれて、教養とは縁遠い環境に育ったため、教養のある人に憧れ、教養を身に付ける事を美徳と考えてきました。しかしその結果私が経済的に豊かになることは、ありませんでした。教養も身につかなかったからだともいえますが……。そしていまや、昔ながらの教養の価値は、社会的にどんどん下がっているような風潮が、私には面白くありませんでした。
 しかし、だからと言って、私の中で「教養」というものにたいする価値は、決して下がりません。やはり、歴史や文学に造詣の深い人を私は尊敬するし、そうゆう人になりたいものだと思うのですが……。
 もうひとつ、興味深く思った話は、最後の章10章で語られた話です。大学のレベルが全体的に落ちているために、息子は父親が卒業した大学よりも「いい大学」に簡単に入れてしまうようになっているという指摘です。子どもにとっては、それでひとつの目標である父親を超える事を達成したと感じてしまうが、実際は父親よりも学力が高まったかどうかは分からないわけです。この構造がとても興味深かったです。自分には子どもがいませんので、実感としてはわかりませんが、自分の子どもが自分の入った大学よりも良い大学に入れば親としてはうれしい事でしょうし、教育の成果を感じ取る事が出来るでしょう。しかし、それが、日本全体の若者の学力低下の恩恵であるとすれば、喜んでばかりもいられないことでしょう。それとも、重要なのは飽くまでも相対的な位置であるので、ブランド大学への子息の入学は、昔と変わらない価値なのでしょうか。

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2007年4月10日 (火)

『「悩み」の正体』 香山リカ著

『「悩み」の正体』 香山リカ著 2冊続けて香山リカを読みました。『知らずに他人を傷つける人たち』と内容が重複するような部分もありました。
 読みやすいのですが、読んでいる端から忘れて行ってしまいそうな内容です。あんまり印象に残らなかったです。
 『「便利な世の中」についていけない』の章の中で、著者が空港の券売機で飛行機のチケットを購入しようとしてうまくいかず、近くにいた係員に尋ねても何を言っているのか分からなかった……という体験を書いていました。香山リカでもそのようなことがあるのかと、少し安心しました。
 『健康のために何かしないと不安だ』の章では、「ニセ科学」を信じてしまう心理を批判しています。効果の怪しい健康器具やサプリメントを買った自分に、それらが効果があると納得させることが大事で、科学的正しさは問題としないという態度を批判しています。

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2007年4月 8日 (日)

『知らずに他人を傷つける人たち』 香山リカ著

『知らずに他人を傷つける人たち』 香山リカ著 副題は『モラル・ハラスメントという「大人のいじめ」』。
 セクハラやパワハラなど最近ではいろいろとハラスメントの種類が増えています。それに便乗して「モラル・ハラスメント」などと、日本人がまたヘンな英語を作ったのかと思ったら、この考えは外国から入ってきたもののようです。フランスの女性精神科医・マリー=フランス・イルゴイエンヌの『モラル・ハラスメント-人を傷つけずにはいられない』と言う著作が翻訳され日本に紹介されたのが、「モラル・ハラスメント」が日本で知られるようになった最初であると著者は紹介しています。

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2007年4月 5日 (木)

『若者殺しの時代』 堀井憲一郎著

『若者殺しの時代』 堀井憲一郎著 1980年代から現代までの、サブカルチャーの歴史が書かれています。
 筆者の堀井憲一郎は1958年生まれと書かれていますので私より3歳年上です。3歳違えば、小学生と中学生の違いであり、中学生と高校生の違いであり、高校生と大学生の違いがあります。なので、わずかに私の青春の思い出と食い違うところもありますが、ほぼ同年代の青春時代の話として、取り上げているそれぞれのエピソードを懐かしく読んでいるうちに、読み終えてしまいました。
 それで結局なんだったのか、何が「若者殺し」なのか、よくわからない感じです。
 あえて分かったふりをすれば、昭和35年前後生まれの世代は、その上の世代(それはたぶん全共闘世代という世代なのでしょう)に、「カモにされ」金を巻き上げられてきた……、とでも筆者は言いたいのでしょうか。

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『職場はなぜ壊れるのか』 荒井千暁著

『職場はなぜ壊れるのか』 荒井千暁著 副題は、「産業医が見た人間関係の病理」です。
 本の帯に「成果主義が生んだ歪み」と書かれているように、産業医の視点からの成果主義批判の本です。
 本書の中で過労から自殺した事件を紹介しています。その自殺が労災認定されたあとに会社側の出したコメントが「結果を厳粛に受け止め、社員の健康管理について改善を進めたい」だったそうです。(p.99)このコメントを出した会社幹部はことの本質がわかっていない、と筆者は言います。労働衛生で「三管理」といわれるものに、「作業環境管理」、「作業管理」、「健康管理」があると紹介しています。この3つの管理は、この順番で優先されるべきものとされているそうです。「健康管理」よりも先に、「作業環境管理」や「作業管理」を行わなければならないと言う事です。つまり、過労自殺を生むような職場は、まず職場の環境と、仕事の内容を見直さなければならないと言う事です。仕事の与え方や度を越えた仕事量などを改めることなく、社員の個人個人の健康管理のみをすることは、対処療法的であり根本の原因に対処していない事になります。
 職場から心の病を発症する人が出た場合、心を病んだ個人以上に、職場が病んでいる事を考えなければならないと言う事でしょう。
 本書でたびたび批判される成果主義が、その職場を病んだ状態にした原因であると思われます。

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『格差社会スパイラル』 山田昌弘・伊藤守・共著

Kakusashakaispiral アマゾンのサイトを見ていて、アマゾンのサイトからの情報だけで、購入しました。
 実物が届いて、ぱらぱらとページをめくったところ、「これはあんまり面白そうにないなぁ……」と思ってしまいました。書店で実物を見ていたら、買わなかったかもしれません。
 『希望格差社会』の著者である山田昌弘の新著と言うことで、格差社会に対するより深い考察が読めるものと期待しての購入でしたが、あまり新奇な分析はありませんでした。
 現代の格差社会においてはコミュニケーションが上手でない事が下流へと落ちていく要因のひとつであろうことは想像できます。そして、コミュニケーションの上手、下手は、親から子へと引き継がれてしまうものではないかとも、私は感じています。
 そのへんの分析を期待していたのですが、本書は、私のそんな期待に応えてくれる本ではなかったようです。


 一章毎に、山田昌弘と伊藤守が交互に書いています。読んでいるうちに、どちらの著者の書いている文章だかわからなくなってしまうことがありました。
 いっそのこと、前半は山田昌弘、後半は伊藤守というように大きく分けてしまった方が、読みやすかったのではないかと思います。
 伊藤守の書いている章で、「ケータイで退化したものとは何か」と言う章の中で、携帯電話は人を信じることを失わせたと述べています。待ち合わせをするのに、携帯電話がある現代では、待ち合わせ時間にきちんと間に合おうとする気持ちが失われてしまい、遅れそうになったら連絡して謝れば良い、と言う考えに変わってしまっています。携帯が無かった頃は、自分が遅れれば待っている相手のことを想って気が急いていたところを、形態がある現代では遅れることを連絡してしまえば、もう待っている相手のことを想いめぐらす事もなくなります。逆に、待たされるほうも、携帯電話が無かった頃は、事故に遭ったのではないか、待ち合わせ場所を間違えたのではないか、などとあれこれ思い巡らせて心配し不安になったところですが、携帯電話の時代ではそんな心配や不安とも無縁となりました。伊藤守は、「コミュニケーションは待てないと成り立たない」と言います。このような相手の状態を想いめぐらすことが出来ないと、コミュニケーションは取れないと言う事でしょう。興味深い考えです。
 山田昌弘の書いている章では、「格差は子どもへ引き継がれる」として、現代の「ニューエコノミー」を生き抜くためには、次の3つが重要な要素だと言います。すなわち、
 1.家に本があるか(親が本を読んでいるか)
 2.親が知的な会話をするか
 3.小さい頃から展覧会やコンサートに連れて行ってもらっているか
の3つです。(p139)
 これは、先日読んだ内田樹の『下流志向』でも似たようなことが言われていました。内田樹も「文化資本」(=教養)が階層によって歴然と差が現れていることを指摘していました。
 本書『格差社会スパイラル』では、この教養を身につけるための3つの要素は、学校以前の問題であり学校で身につけるものではないと山田昌弘は言っています。
 本書は、個々の内容は興味深い事や示唆に富むことが書かれてはいるのですが、二人の著書が書いているそれぞれのことが、うまくつながることが出来ずに、中途半端な形になっている感が否めません。
 コーチングについても、興味深いと思いますが、本書では、かなりもの足りないような気がします。
 格差社会についても、また、然りです。

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2007年3月24日 (土)

『下流志向』 内田樹著

『下流志向』 内田樹著 昨夜、アマゾンで買ったモノが届きました。夜の10時くらいから読み始め、熱中してしまい夜中の2時半まで読みふけって読破しました!
 とても、面白い内容でした。
 一部、ブログ『内田樹の研究室』にも書かれていた内容と重複する部分もあり、既に読んでいた内容もありましたが、新しくユニークな分析は大変刺激的で興味深く読みました。

■第一章:学びからの逃走
 「学びから逃走」する子どもたちは、「不快という貨幣」と「教育というサービス」を等価交換しようとしている、という説明は新鮮で刺激的です。
 「不快は貨幣として流通する」ということを、子どもたちが学ぶのは、家庭の中で、親を見ておぼえるのだと、内田樹は言います。父親が働いて疲れ果てて帰ってくる。父親は、不機嫌を家に持ち帰ることで、家計を支えていることを象徴的に示している。そして母親は、「他の家族の存在に耐えている」ということで、家庭内において記号的に自分の家族への貢献を示している。
 そんな家庭の中で、子どももまた勉強や塾通いといった「おつとめ」の疲労感と不快感を全身で表すことによって、家庭での自分の存在を示さなければならない。
 そのように、とても悲劇的な家庭のありさまを原因として筆者は指摘しています。

■第二章:リスク社会の弱者たち
 山田昌弘の『希望格差社会』に出てくる「パイプライン・システム」と言う術語に触れて、パイプライン・システムに亀裂が入り「漏れ」が生じていることからリスク化と二極化が進んでいるという山田昌弘の理路を紹介しています。そして、内田樹が言うには、階層ごとにリスクの濃淡があると指摘しています。
 上層家庭では、その家庭の地位は努力の結果であるとして努力が報われるものと信じる事が出来、それゆえに上層家庭の子どもは、努力をするであろう。しかし、下層の家庭では、努力が報われずに現在の家庭の地位があると考え、努力は報われないものという考えに支配され、「勉強なんかしても意味が無い」と言う考えに、親子とも行き着くであろう。そのように、筆者は説明します。下層の家庭の子どもほど、「努力しても意味が無い」と言う考えにとりつかれやすく、そして格差はより広がってゆくという訳です。
 このようなリスク社会で、リスクヘッジとなるのは、期待しない結果となったときの結果責任をシェアできる相互扶助的集団をどのように構築できるかにかかっていると、筆者は指摘します。
 最近流行ったテレビドラマの『華麗なる一族』でもそうでしたが、閨閥を利用して家族がお互いに利益を得たり助け合ったりする事は、社会の上層部では常套的な方法であったでしょう。そして、筆者が言うには、そのような親族の助け合いは、いまから数十年まえの日本では、広く一般的であったのではないかと、筆者自身の親戚付き合いの記憶から示唆しています。
 ここで思い出したのは島田裕巳の『不安を生きる』に書かれていた、慶応大学の同窓会「三田会」についての話です。慶応の出身者は「三田会」のネットワークで強固に助け合っていることが書かれていました。
 私は、大学の同窓会も、高校の同窓会も、その活動にまったく興味を持っていなくて、同窓会の人脈を活用しよう等とは考えたことも無く、ブランド大学の実力は、慶応の三田会のような人脈力にあるのかと感心しました。
 リスク社会に必要なリスクヘッジは、どのような相互扶助的に所属するかと言うことである事、大変興味深かったです。
 
■第三章:労働からの逃走
 「近代までヨーロッパでは貧しい階層の親たちが子どもを幼児期から労働力として使役するのが当然だった」と言う筆者の指摘は、忘れていた事実を思い起こさせる以上に、現実を照らし出しました。
 最近の格差社会の進行を指摘されるにたびに、歴史の逆行は放っておけばいくらでも逆行するのではないかと私は考えています。このまま、労働経済的な逆行が進めば、かつてのNHKドラマの『おしん』のように、また再び子どもが労働力として使われる日がやって来ないとは断言できないのではないかと、心配しています。

 『人間はつねに自分が必要とするより多くのものを作り出してしまう。その余計に作り出した部分は、いわば個人から共同体への「贈り物」なのです』と筆者は述べ、労働は本質的にオーバーアチーブであると言います。
 「労働は等価交換ではない」と、繰り返し筆者は述べます。しかし、労働から逃走する若者は、自分の労働が等価交換され、努力に等価な成果を求め、それが得られないから、そんな不合理な労働はしないと考えているのだと推察します。

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2007年3月10日 (土)

『むかつく二人』 三谷幸喜・清水ミチコ著

『むかつく二人』 三谷幸喜・清水ミチコ著 FM放送のラジオ番組の書籍化。
 三谷幸喜という人の話を聞いて見たかったので、読んでみました。
 大笑いするほどの話はありませんでした。せいぜい、くすっと笑う程度。
 読んだ翌日には、忘れてしまいそうなエピソードばかりで、あまり印象に残る話が無かったのが残念です。
 会話から垣間見える三谷幸喜の性格、性質も、私にはあまり魅力的には思えないものばかりでした。
 三谷幸喜は昭和36年生まれのようで、私と同い年です。昔のテレビ番組の話などは、よくわかりました。トムとジェリーの主題歌の歌詞の話、面白かったです。

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『数に強くなる』 畑村洋太郎著

 「格差社会」問題を続けて読んで少し飽きてきたので、まったく毛色の違う本を読もうと思って手にしました。
 岩波新書です。
 『直感でわかる数学』、『続・直感でわかる数学』の続編的な本であるそうです。私は、それらを読んでいないのですが。
Kazunitsuyokunaru 自分の知っている知識を組み合わせて、数量を導き出す。概算で、大まかな数量をつかむ。そのようなことの、実例がいくつも載っています。
 建物の高さ、目的地までの道のり、地下鉄の所要時間……。これらは、すでに知っている常識的な数量から、近似値を求める事が出来ます。それらを、常に行い、検証する事で、より精度の高い予想ができるようになると、筆者は言います。
 私にとっては、ある程度までは常識的な当たり前のことのように受け取りましたが、理数系、工学系以外の人には新鮮な話なのかもしれません。
 音楽の音階が6%づつ周波数が上がって行き12回繰り返すと2倍、すなわち1オクターブになると言う話は、興味深かったです。そして、人間の感覚の識別能力は、おおよそ6%の差の検知が最小幅なのではないかとする仮定は面白く思いました。(あくまで、仮定の話で、物理的、生物的に証明されているわけではありませんが)

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『ワーキングプア』 門倉貴史著

File0010_2 副題が「いくら働いても報われない時代が来る」。 宝島新書です。
 だいぶ、くだけたつくり。雑誌に近いような内容です。
 章と章の間に、ワーキングプアに陥っている人へのインタビューが載せられています。
 そのインタビューが、悲惨な状況であるにもかかわらず、希望を持って生きている人ばかりで、彼らを困窮に追いやっている社会の仕組みを、是正すべきであると言う強い主張に、なぜか結びついてゆかない感じがしました。
 格差社会の現状分析も、類書に較べて、強いアピールが無い感じでした。
 格差問題への入門書として、最初に読むには、易しくてよい本なのかもしれません。

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2007年3月 1日 (木)

『格差社会の結末』 中野雅至著

Kakusashakainoketsumatsu 元・旧労働省の官僚だった筆者の、格差社会が現状に至るまでの原因分析と、今後の展望が書かれています。
 経済学者、社会学者や法律家などの視点とはまたひと味違った角度からの評論は、興味深いものでした。
 とても、中立的なポジションからの発言で、こうあるべきだという理想を振りかざすでもなく、信望する理論に縛られるでもなく、なるほど官僚というものは、こうゆうものの見方をするのかと、ヘンに感心しました。
 「どうあるべきだ」というのではなく、世論がどのように変わっていくかを予想する展開は、新鮮でした。
 筆者の予想では、バブル期に大きく触れた振り子が揺れ戻り、現在の市場主義の色合いが薄れていくように見通しています。

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2007年2月27日 (火)

『テレビの嘘を見破る』 今野勉著

『テレビの嘘を見破る』 今野勉著 「あるある大事典」のねつ造問題は、だいぶ沈静化したと言うか、最近はもうあまりニュースには取り上げられなくなったような気がします。あとは忘れ去られるのみなのでしょうか。
 今回の事件で、「あの程度の嘘は、みんな見破っていた」という意見をネットで読んで、ちょっと衝撃でした。自分は嘘を見抜けていませんでした。
 そんなこともあり、本書を読んでみました。
 再現、誇張、歪曲、虚偽、捏造。ドキュメンタリーの中の「嘘」は、これらのいろいろなレベルがあります。そして、再現などは、演出上の手法として積極的に使われたり、その技術を磨いてきたりした歴史があります。また、これらのレベル分けも連続的なもので、明確な境界線があるわけではありません。
 一例として、目的地からの帰り道に撮影した映像を、順序を変えて目的地へ向かう映像として使う例をあげて、これも「嘘」であるかと問いかけています。
 私も、ホームビデオの編集で、旅行のビデオで順番を入れ替えて編集する事もあります。いきなり観光地の中心部の映像で始まるよりも、高速道路を走る車の中から撮影した風景や、観光地の入り口の風景を先に見せた方が、動画の見せ方として、落ち着きが良くなる場合があります。
 そのような「見せ方」の工夫としての嘘と、ドキュメンタリーとしての事実を伝える姿勢との間の綱引きで、「嘘」とそうでないものとの境界はあいまいです。
 本書で筆者が述べているのですが、映像作品のリテラシーをより高めるために、もっと見る側も映像の作られ方を知っておく必要があると、私も思いました。
 ついでながら……。本書を読んでもなお、「あるある……」の捏造は、見抜けなかったものと、私は思いました。

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2007年2月22日 (木)

『「責任」ってなに?』 大庭健著

『「責任」ってなに?』 大庭健著 『萌える男』と一緒に本棚から出てきた、いつ買ったのか分からない本です。アマゾンの購入履歴にも載っていなかったので、ネットで買ったのではなくて、書店で買ったのだと思います。『萌える男』は2005年11月10日の発行でしたが、この本は2005年12月20日発行となっています。その頃に買ったものなのか……。「責任とは何か」を考えるような出来事が、その頃にあったものなのか、自分の事ながら分かりません。


 「こうゆう感がえ方が、倫理学というものなのか」と思ったのですが、とても緻密に論理を展開して行きます。前半の倫理学の考察は、少しかったるいけれど、面白かったです。
 責任というものを、「役割や地位に固有な配慮義務」と捉える事から離れて、『「問いかけ・呼びかけうるし、応じる」間柄を生きること。これが「責任がある/を負う」ということの根幹である。』と説きます。まずこの点で新鮮でした。この「呼応可能な間柄」が責任の基にあるというわけです。「責任を担うということは、消極的には、呼びかけられているという事実を黙殺せず、応える事を期待されているという事実を無視しない事である」(p.25)  責任を問われるという状況は、相手が当然のことと期待した事柄を、履行しなかった状況といえるでしょう。
 現在、その行動に至った心理過程が想像できないような犯罪が、しばしばニュースで報道されます。また、自分の予期しない反応が、見知らぬ他人から返ってくることもあります。コミュニケーションが成り立たない、相手の気持ちが分からない、そんな場面が増えていないでしょうか。そのような社会では、おそらく責任もはたされないことが多いのかもしれません。
 第4章では、集団としての責任の考察がなされます。会社や国家の責任です。「トップが決めて降ろしてきた方針に、うすうす疑問を感じながら、疑問を声にすることなく従ってきたのだとしたら、末端の成員にも、それなりの責任はある」と確認した上で、筆者は「集団の過去の行為についての責任」を論じてゆきます。
 会社が過去に起こした公害に対して、当時の社長、役員や社員がいなくなったからと言って、現在の会社に所属するものたちに、被害者への補償の責任が無いかという問いは、当然責任があるという答えになります。集団としての同一性が保たれている限り、集団の構成員が変わっても集団の責任は変わらずに存在するのです。
 この論理は、戦争責任についての議論につながっていきます。戦後生まれの、戦争の決定や遂行になんらかかわらなかった現代の多数の人々にも、前の世代の起こした戦争の責任は間違いなくあるというわけです。
 7章、8章は、戦争責任の問題から、その責任を果たしていないまま続いてきた日本社会の歪みについての話題になります。この辺は、筆者の専門からは離れる事もあるでしょうが、説得力が少し落ちる感がありました。そうではあるものの、日本社会が、戦前から続く歪んだ構造をいまも引継ぎ、引きずっているという指摘は、新鮮で、興味深いものでした。

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2007年2月10日 (土)

『萌える男』 本田透著

『萌える男』 本田透著 本棚を整理していたら、この本が出てきました。いつ買ったのか思い出せません。まだ読んでいませんでした。奥付を見ると2005年11月10日発行の第一刷となっていました。1年以上も前に買ったものでしょうか。
 『労働ダンピング』を読んで、少し衝撃が大きかったので、少し毛色の違った別分野の本を読みたいと思っていたところで、いまの私にはちょうど良い「箸休め」になるかなぁと、読み始めました。


 「萌え」とか、「オタク」については、私はあんまり詳しくない方だと思います。「ガンダム」は見たことがありません。『新世紀エヴァンゲリオン』は、どんな話なのかすら分かりません。
 そうゆう私が読むには、オタクの世界の解説が面白かったですし、もっと細かく深く解説して欲しいところでした。
 心理学や吉本隆明の共同幻想論などを援用して、筆者は「萌え」を解説していますが、私にはしっくり来ないところが多かったです。
 筆者は、筆者自身が「萌え」を必要としている人間であると言うところから発言していて、「萌え」擁護、「萌え」差別への反論、批判と言った文章になっています。そのスタイル自体が、しっくり来ない原因のひとつのように思えました。
 「萌え」と従来の自由恋愛思想は対立し、相容れないものであると言う事が、出発点となっているため、「萌え」か(筆者の言うところの)『恋愛資本主義』かの二者択一の思考から抜け出せないようなもどかしさが感じられます。
 私の知らないだけでこの分野を議論した本は多いのかもしれませんが、本書は私にとっては新鮮でしたし、それなりの労作であると認めずにはいられません。

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2007年1月25日 (木)

『労働ダンピング』 中野麻美著

『労働ダンピング』 中野麻美著 読みました。
 ちょっと私には難解な部分もあって、途中で1、2ページ戻って読み直すようなことを何度もしました。なので、理解が十分とは言えないのですが、感じたところをメモしておきます。
 私が、大学を出て就職したのは1987年なのですが、その前年1986年に労働者派遣法が施行されました。私が新入社員で配属された職場にも、「外注さん」と呼ばれる、私の会社の社員ではない、よその会社から来ているエンジニアがいました。
 年々と、その「外注さん」の数は増えてゆき、逆に自社の新入社員はなかなか入ってこなくなりました。
 もはや現在では、自社の社員よりも、「外注さん」のエンジニアの方が圧倒的に人数が多くなっています。
 彼ら「外注さん」が、どれだけの給料をもらっているのか、ひとの懐の中身なので良くわかりません。
 しかし本書を読むと、いろいろな職業で、派遣社員は低賃金を押し付けられ、しかも雇用の保証も十分でなく、派遣先の意向で簡単に契約を終わらされる、不利な立場にいることがわかります。
 そしてまた、派遣社員の低賃金に引きずられるように、正社員の給料をも低く抑えたり、あるいは正社員をリストラし契約社員に身分を切り替えられて実質的な賃下げをしたりすることが横行していると、本書は指摘します。
 自分の周りを見ても、リストラされた元社員が、契約社員になって再び雇用されている人がいます。
 労働が商品として扱われ、価格競争によりどんどんとダンピングされている現状が、本書で詳しく解説されています。
 規制緩和として「派遣」というスタイルを許した事が、今日の労働ダンピングを生んだと指摘しています。
 労働は、商品では無い。価格競争や、需要と供給で価格が決まってはいけないものである。そんなことは、わかっていたはずの事だと思うのですが。
 本書を読んで、歴史が逆行する事もあるのだと、改めて考えさせられました。放っておいても、労働環境は進歩していくものだと、能天気に信じていた自分が、とても馬鹿だったのだと思いました。
 このまま行ったら、「おしん」の世界や「ああ野麦峠」の世界が、また現実のものとなるのではないかと、そんな暗澹たる気持ちになりました。

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2007年1月24日 (水)

『インテリジェンス 武器なき戦争』 手嶋龍一・佐藤優著

『インテリジェンス 武器なき戦争』 手嶋龍一・佐藤優著 小説や映画のようなスパイの話。しかも現実の話。とても、面白く読みました。
 1982年のソ連アンドロポフ書記長の死去を世界で最初につかんだのが日本であるという話など、とても興味深かったです。
 また鈴木宗男の功績についても触れられていて、興味深く読みました。
 本書では、日本にもインテリジェンス組織が必要だと言っています。この本を読んでいると、必要なのかなぁと思えてきますが、広く国民の合意を得られるでしょうか。また、私利私欲に走らず、純粋に国益のために働くプロフェッショナルが、キチンと育成できるのか……、難しい問題かと思います。
 しかしまた、それでもなお、本書を読めば、外交交渉のためには、インテリジェンスは必要不可欠であることもわかります。


手嶋龍一オフィシャルサイト

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2007年1月12日 (金)

『バカとは何か』 和田秀樹著

成果主義、知識社会、競争社会、格差社会の現在では、バカになることが「負け組」につながり、自分のバカを減らす事が「勝ち組」につながる。
Bakatohananika  「序 私の原動力はバカ恐怖」の一節です。
 損をしないように、無駄な事をしないように、要領よく物事をこなす……。そんな考えに貫かれているような内容です。ある種、処世術が書かれているといえるかもしれない。
 無駄な事、損な事、要領の悪い事、誤った判断……、誰でも多かれ少なかれやっている不合理なことを、理路整然と誤りを指摘してくれます。
 そのような、「バカ」な振る舞いを、少しでも減らしていくことが、この世知辛い世の中をうまく泳いでいく事だと、説いているかのようです。
 「リコウ」が「バカ」を喰い物にしているのが現代社会。喰い物にされないためにも、本書を一読するのは有益な事かもしれません。

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2006年12月30日 (土)

『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』 香山リカ著

 TBSの土曜日の朝の情報番組『王様のブランチ』の書籍紹介のコーナーで、新しく創刊された幻冬社新書の紹介をしていました。その紹介の中で、この香山リカの『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』の書名を決めるまでの様子を放送していました。
 「スピリチュアル」ということに、何の興味も関心も無かったのですが、このテレビ番組を見たおかげで、この本がなんとなく気になっていたところ、書店に平積みにされているのを見て買ってしまいました。
 江原啓之という人がブームになっているというのも本書で初めて知りました。(第3章・江原啓之という現象:p.71)
 21世紀になっても、霊魂や死後の世界、生まれ変わり等を信ずる気持ちは、廃れることなく生き続けていることが書かれています。著者は、それらの現状を批判的に述べています。

◆◆◆
 私も、霊魂などのロマンには憧れのような思いはありますが、現実は霊魂や死後の世界などは存在しないのではないかと思っています。
 私は全身麻酔による手術を受けた事があります。麻酔科の医師の書いた本を読んだことがあるのですが、その医師によると、全身麻酔のかかっている状態は仮死状態のようなものであるそうです。それを読んで以来、死というものは、あの全身麻酔のかかっていた時間のように、夢も見なければ、時間間隔も無い、そんなものなのだろうと想像するようになりました。
 とは言うものの、月に一度は亡くなった母の墓参りに行きますし、年忌法要にはお寺に行き住職から死後の世界の話を聞いたりしますけれど。
◆◆◆
 「第5章スピリチュアルちょい批判」(p.133~)で、オウム真理教事件と較べながら、「スピリチュアルが、オウム真理教のような危険なカルトや新興宗教と実は地続きなのだ」という指摘を筆者はしています。
『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』 香山リカ著 私も、オウム事件以来、信じると言う事、真実と思うことについて、自分は大丈夫なのかと常に問いかけて来ました。そして、最近は、何が信じられるのかわからなくなりそうになっています。
 というのは、話のスジが良く通っているからといって、それが(科学的)真実ではないということが、よく見かけられるようになりました。
 本書でも川島隆太郎教授の「脳トレーニング」や、「医学博士が効果を保証した健康食品」など、科学的検証が不十分なまま科学的効果が実証されているかのような商品を批判しています。
 最近では医学博士・森昭雄の『ゲーム脳の恐怖』のような科学的に批判される言説が、世間では広く支持されたりする例もあります。
 何を頼りに真実を知りえるのか、私はこの年齢になって、ますます自信がなくなってしまいそうです。

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2006年12月29日 (金)

『格差社会 何が問題なのか』 橘木俊詔著

『格差社会 何が問題なのか』 橘木俊詔著 会社帰りに駅前の本屋にぶらり立ち寄り、目に付いた新書を2冊買いました。その2冊のうちの一冊です。通勤電車一往復ちょっとで読み終わりましたので、3時間ぐらいで読み終わった感じでしょうか。
 各種統計数値から日本が格差拡大に向かっていることが示されています。
 日本がヨーロッパの国々に較べて、不平等度が大きいことが、OECD調査から示されています。日本はポルトガル、イタリア、アメリカ、ニュージーランド、イギリス等に次ぐ高い不平等度であるそうです。(p.12)日本は、イギリスやアメリカに近づいていると言う事に、改めて驚きました。
 雇用問題、福祉問題では、最低賃金額と生活保護支給額の比較に驚きました。なんと、最低賃金額が生活保護支給額よりも低い現実があるということです。(p.81)最近、見聞きする「ワーキング・プア」の、数値的実証です。
 こうなってしまった原因の大きな部分に政府の政策があることを、説得力をもって示しています。何らかの対策が必要な事は、間違いないようです。

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2006年5月22日 (月)

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』 橋本治著

Hitohanaze 読みました。
 例によってアマゾンでまとめ買いした新書のうちの一冊。
 読み終わってから考えるのもおかしいけれど、自分は何を求めてこの本を読んでみようとしたのやら、買おうと思ったときの自分の気持ちが思い出せません。
 橋本治の本は、なんだか自分がアタマ良くなった気分にさせてくれます。論理を積み上げて結論に到達する文章が私は好きです。
 「世の中には『美しい』という事が分からない人がいる」などと書かれると、自分は「美しい」がわかる人なのかと心配になります。
 この本を読みながら、今までの人生で「美しい」と思った瞬間を思い出して見ました。真っ先に思い出したのが、大学生の頃、房総へドライブした時に見た、雲が低くたなびく山の風景。あれは、言葉を失うような美しさだった。等とたびたび思い出しながら読んでいました。
 第三章「背景としての物語」の中で展開された『徒然草』と『枕草子』の対比の話。面白かったです。私は高校は理系進学のクラスだったので、古文はあんまり勉強しなかったし、苦手でもありました。今回、この本で読んで、『徒然草』とはそうゆう文学なのかぁ、『枕草子』とはそうゆうスタンスで書かれていたのかぁ……と、いちいち感心して読んでいました。
 筆者の幼い頃の体験から「美しい」とは何かを考えていく文章では、幼い日々へのノスタルジーが感じられて、読んでいる自分もまた幼い頃のことを思い出したりしました。

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2006年5月16日 (火)

『嗤う日本の「ナショナリズム」』 北田暁大著

嗤う日本の「ナショナリズム」 読みました。
 連合赤軍事件から、現代の「2ちゃんねる」まで、サブカルチャーを読み解く本書は、ちょうど私の子どもの頃から青春を経て現代に至るまでの半生と重なるところがあり、懐かしさのような気持ちを抱きながら読みました。
 奥付の著者紹介を読むと、著者は私よりも若いことに驚きました。私よりも若い人の書いた文章で、私の小学生の頃の事件である連合赤軍事件についての解読を読むのは、なんだか不思議に感じました。(同じような事を書いているブログがありました
 正直言って、あまり良く理解できなかったです。とても興味深い視点を提供しているのだろうと思うのですが、すとんと納得いくまでには至りませんでした。
 連合赤軍事件を読み解いていく記述の中で、よど号ハイジャック事件を行ったグループの声明文の中に、「われわれは“明日のジョー”である」という一節があることが書かれていて、そんな事実を初めて知った私は、とても意外に感じ驚きました。(第二章2節・p79) 政治的な主張から過激な行動を取った集団が、マンガを愛読しそこから何かのメッセージを受けていたという事実は、私には新鮮な驚きです。
 サブカルチャー文化の萌芽が60年代にもうすでにあったということは、興味深いと思いました。

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2006年3月17日 (金)

『「ニート」って言うな! 』 本田由紀・内藤朝雄・後藤和智著

『「ニート」って言うな! 』 本田由紀・内藤朝雄・後藤和智著) 読みました。
 「ニート」という存在が、「引きこもり」や「対人関係を上手く出来ない性向」などと混同される事によって、現実には増加していないのに、いたずらに不安をあおっているという状況がよくわかりました。そして、本来必要である失業者対策から、目をそむけさせているという構造にも気づかされます。

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2006年3月11日 (土)

『歴史認識を乗り越える』 小倉紀蔵著

『歴史認識を乗り越える』 小倉紀蔵著 読みました。
 儒教だとか、朱子学とか出てきて、私にはちょっと難しかったです。
 理解不十分なので、誤った理解があるかもしれませんが、感じたところを書きます。
 儒教的価値観では、序列を大切にします。韓国では目上を敬う事が当然であるということをしばしば耳にします。逆に言うと、上下関係に敏感であるという事でしょう。そして、どうやら、本書によると、朝鮮半島の国は、日本を自分たちの国よりも低い位置にいる国と思っているようです。
 大陸からの文化を日本に伝えたのは、朝鮮の人々であった事は、事実でしょう。彼らは、それゆえに、朝鮮は日本の師であり尊敬されるに値すると思っているようです。
 彼らにとって、その師である国を侵略した日本は、耐え難く許されざる存在なのかもしれません。
 歴史認識で対立する個々の歴史の出来事、事件に対する謝罪を要求する背景には、人道的な非難の裏に、このような中華思想的な背景があるのかもしれないと思いました。

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2006年2月24日 (金)

『司法のしゃべりすぎ』 井上薫著

Shihou とても理路整然としていて、「理系の人だなぁ」と感じました。

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2006年2月21日 (火)

『国家の品格』 藤原正彦著

KokkaNoHinkaku 読みました。
 講演記録をもとにして、加筆修正して本にしたものであることが「はじめに」で書かれています。所々に、聴衆を飽きさせないように小さな笑いを織り込んでいるところが、もともとが講演であったことをうかがわせます。平易で読みやすく書かれていました。
 筆者のプロフィールを見ると、数学者で、お茶の水女子大学の教授です。

■第一章 近代的合理精神の限界
 数学者である筆者が「論理」の限界を説明する部分は興味深いです。『「論理を徹底すれば問題が解決出来る」と言う考え方は誤りです』 (p.34) という断言は、新鮮に受け止めました。

■第二章 「論理」だけでは世界が破綻する
 どんな正しい論理でもそれを徹底していくと破綻してしまう理由を、4つ挙げています。その4つとは(小節の標題より)
 (1) 論理の限界
 (2) 最も重要な事は論理で説明できない
 (3) 論理には出発点が必要
 (4) 論理は長くなりえない
です。
 (1)では、論理的に間違いの無い方策が、期待しない結果を招く例を挙げて、論理には限界があることを述べています。
 (2)では、数学の世界でさえ、論理で説明できないことがある、まして一般の世界では論理で説明できないことの方が普通である (p.46) と指摘します。例えば、「なぜ人殺しは、してはいけないか」ということは「駄目だから駄目」ということに尽きると言います。 (p.47)  私も、個々人の倫理観の根幹となる部分は、理屈ではない説明不能の部分があると思っています。あっかんべぇ『オレ様化する子どもたち』 諏訪哲二著
 (3)は、どんな論理も、出発点は論理的帰結ではなくて仮定であるという事です。その出発点の取り方次第で、理論として誤っていなくても、異なる結果を導き出します。そして、その出発点を選ぶときに大切なのは、「情緒」であると筆者は言います。「どんなに論理的に整合的でも、出発点の仮定が駄目なら駄目!」という事は、忘れがちなことかもしれないと、感心しました。
 (4)は、数学的で面白い説明です。「AならばBである」という因果関係が、確率1でなければ、「AならばB,BならばC」と続けていくに連れて、最初の出発点と最後の結論の間の因果関係はどんどんと確率が低くなっていきます。「風が吹けば桶屋が儲かる」確率は、たいへん小さいものであります。何々であればこうこうである、という因果関係の確率がそれぞれ1ではない、つまり確実ではない事が、その理由です。
 論理が複雑で長くなればなるほど、その導かれる結論が「あやしくなる」と、筆者は言っているようです。

■第三章 自由、平等、民主主義を疑う
 民主主義、資本主義の欠点を取り上げます。筆者は「大衆」と言う言葉は使っていませんが、いわゆる一般大衆は扇動に乗りやすく、戦争を好むのも「国民」であるといいます。「国民は永遠に成熟しない」 (p.83) のでエリートが必要であると説きます。エリートの条件のひとつは『「いざ」となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること』 (p.84) であると主張します。
 このあたりまでくると、私は少し構えてしまいます。エリートならば、国のために命を捨てよ、という主張には、一般人には国のために命を捨てる事を求めていないものの、私の中で注意信号が点滅し始めます。すこし危険な考え方ではないかと。

■第四章 「情緒」と「形」の国、日本
 日本がいかに素晴らしい文化を育んで来た国であるかを力説しています。
 昭和の初めに東京のイギリス大使館にいた外交官夫人キャサリン・サムソンさんの著書『東京に暮らす』に書かれている日本の庭師の話を紹介し、日本の庭師がいかに素晴らしい自然感に裏打ちされた仕事をするかを書いています。日本にある茶道、華道、書道などの芸術は、日本人の持つ美的情緒の現れであると言いたいようです。
 日本の紅葉は世界一美しく、また日本の四季ははっきりしていると賞賛しています。
 これらの日本賛美を読んでいて思い出したのは、香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』に書かれていた指摘です。日本を理解しようと努力する外国人に対して、日本人は「外国人には日本が理解できるわけがない」という思い込みを持っている人が多い事を指摘しています。
 藤原正彦もまた、そういった思い込みを持った一群の人々のなかのひとりなのかもしれません。
 この第四章の末尾で、英語の「ナショナリスト」と「パトリオット」の違いを挙げて、国を愛する心には2種類あり、ナショナリズム=国益主義としてこれを非難し、パトリオティズム=祖国愛と峻別すべきであると主張しています。この2つの心情の違いについては、興味深く思いました。 

■第五章 「武士道精神」の復活を
 日本人の道徳として「武士道精神」の復活を訴えています。
 新渡戸稲造著の『武士道』という書物の存在については、私は、映画「ラスト・サムライ」が公開されたときの映画評などで初めて知りました。新渡戸稲造著の『武士道』に書かれている「武士道」がすべてではないとしながらも、新渡戸稲造の生涯に触れながら、新渡戸稲造の『武士道』を紹介しています。
 また、筆者・藤原正彦が父親から受けた教育が、武士道の精神に通じるものがあったことを書いています。
 
■第六章 なぜ「情緒と形」が大事なのか
 「情緒と形」が大切な理由として、著者は6つの理由を挙げています。これもまた小節の標題を拾うと、
 (1)普遍的価値
 (2)文化と学問の創造
 (3)国際人を育てる
 (4)人間のスケールを大きくする
 (5)「人間中心主義」を抑制する
 (6)「戦争をなくす手段」になる
の6つです。
 (1)の普遍的価値については、イギリスを例に上げ世界的に受け入れられる価値を創出する国は「尊敬」されていると言います。イギリスの生んだ普遍的価値は、議会制民主主義や、シェイクスピアやディケンズの文学、ニュートンの力学、マックウェルの電磁気学、ダーウィンの進化論、ケインズの経済学などなどです。これらの新しい知見に対する尊敬が、イギリスが世界の中で高い地位を占めている理由であると筆者は言います。
 日本もまた、イギリスに劣らず多くの普遍的価値を生み出してきたとして、世界で初めて小説の形式を発明したのは紫式部であるとか、関孝和という数学者は、ドイツのライプニッツが発見する前にすでに行列式を発見していた事などを挙げています。「コーバン」(交番)や「トーフ」(豆腐)などの言葉は、そのまま英語を話す人に通じる国際語となっていることも指摘します。
 日本は、このような世界に誇れる日本文化を、世界に発信していくべきであり、グローバル化によって画一化の波に飲まれてはいけないと主張しています。
 (2)の「文化と学問の創造」については、「美しい情緒」は、学問や文化をつくりあげる重要な要素であるとしています。
 (3)の「国際人を育てる」という理由は、次のとおりです。国際人として大切な事は、英語の能力などではなく、自国の文化を深く理解し、それを他国の人々に紹介できる事こそが、重要な要件であると言います。日本の「情緒と形」を大切にする事が、日本文化の理解を深め、国際人になりえると言う事のようです。
 (4)「人間のスケールを大きくする」とは、「情緒と形」を大切にする事は、利害損失にこだわった目先の判断にまどわされること無く、真に価値あるものを選ぶことにつながるということです。
 (5)「人間中心主義を抑制する」とは、「美しい情緒」は人間が一番重要であるという西欧的考えから自由になり、自然との共存を促進するということのようです。
 (6)「戦争をなくす手段になる」というのは、次のような理由からです。すなわち、美的感受性があれば、破壊行為である戦争をためらうだろうというためです。また、日本的な情緒では、自然は神であり、自然との調和を善としているために、異質の価値観や宗教を排除する事をしないと筆者は言います。この日本人の価値観を世界に発信する事が、世界平和につながると筆者は考えています。
 以上の6つの理由ですが、すべては日本人が特殊で優れているという前提の上にあるように、私には感じられます。理論には限界があると第一章、第二章で述べているので、これら6つの理由も理屈では説明できないと筆者は言うのかもしれません。
 
■第七章 国家の品格
 筆者は天才が生まれる条件として、次の3つの条件を挙げています。第1の条件は「美の存在」で、第2の条件は「跪(ひざまず)く心」、第3の条件は「精神性を尊ぶ風土」です。日本は、まさにこの3つの条件を満たしていると筆者は言います。
 最後に、品格のある国家の指標として、4つの指標を示しています。
 (1)独立不羈(どくりつふき)
 (2)高い道徳
 (3)美しい田園
 (4)天才の輩出

全体を通して感想
 始めの章で、理論的であること、理論の筋が通っていることが、より良い結果を必ずしも導かないという指摘は、とても興味深く面白い思索です。
 しかし、それに続く各章は、いささか新鮮さに欠ける、どこかで見聞きしたような主張でした。
 民主主義は、構成員の多くが愚かであれば、より愚かな結論しか導き出さない、という議論は、私が学生の頃から何度も見聞きした説であり、それゆえに、エリートが必要であるという主張にいたっては、陳腐であるとしか言えません。
 武士道を道徳のよりどころとすべきとの筆者の意見も、ただ単に筆者の受けた家庭教育における道徳の基本が、武士道の道徳に近いものであったに過ぎず、自己肯定の論理でしかありません。
 本書の人気は、「国家の品格」という題名が、現代日本人の興味を上手くひきつけたものであるという事に過ぎないでしょう。


■葉桜日記:『国家の品格』(藤原正彦)

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2006年2月20日 (月)

『他人を見下す若者たち』 速水俊彦著

Mikudasu 「半蔵」で「鰻まぶし」を食べたあと、町田小田急の8階の久美堂に寄りました。『鶴見線物語』も読み終わったので、本を数冊買って帰ろうというわけです。私が学生の頃は(もう25年くらい前のことですが)、町田で立ち寄る本屋さんは、この小田急の久美堂と、小田急町田駅前の久美堂本店、それにジョルナにあった有隣堂の3つでした。最近は、町田に来ても小田急デパートには、あまり寄らなくなってしまっていて、小田急8階の久美堂に寄ったのも、かなり久しぶりの事です。


 新書の新刊の平積みの山のなかに、この『他人を見下す若者たち』がありました。
 本の帯のコピーに目が止まりました。大きく『「自分以外はバカ」の時代』と書かれています。吉岡忍の朝日新聞に載った小論の題名と同じです。その吉岡忍の文章は、私もネットに転載されていたものを読んで感銘を受け、この『あっかんべぇ』でも紹介しました
 本書でも、約1ページを割いて吉岡忍のその文章を紹介しています。
 筆者は教育心理学の教授です。書名も「他人を見下す若者たち」と言うことで、若者の性向について論じています。
 そのため、どうも「いまの若い者は……」という年寄りの繰言のように聞こえてしまいました。 特に、昔の若者はこうであったのに、いまの若者は……、という比較になると、本書の価値が下がってしまうように思います。
 他人を見下す傾向は、いまや若者だけの傾向ではないと思います。また、本書の中でも、広い年代にわたって、他人を見下す傾向「仮想的有能感」をもつ者がいることを指摘しています。
 それゆえにも、社会現象として、現代社会の問題としての考察を聞いてみたいと思います。
 コミュニケーション能力の不足、地域社会・地域共同体の機能の喪失、他人との係わり合いをわずらわしく思い避ける傾向などなど、最近私が読んでいる本に共通して出てくる問題が、この本でも指摘されています。
 いろいろな分野で、多くの人が、同じ問題に気がついているように感じます。
■名古屋大学教育学部:速水俊彦

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2006年2月17日 (金)

『鶴見線物語』 サトウマコト著

TsurumiSen 読みました。
 カナロコ・ローカルニュースに、この本の紹介が出ていたのを見て、Amazonに注文して買いました。(肝心のカナロコの記事のURLはブックマークしておくのを忘れたため、わからなくなってしまいましいた! スミマセン。) 12月上旬には本が届いていたのですが、届いた日にぱらぱらとページをめくって斜め読みしただけで、長らく本棚に眠っていました。買い置きの(?)本が無くなり、読む本が無くなったので、今回この本の始めから丁寧に読んでみました。
 私の生まれたのが、横浜市鶴見区で、小学校4年生の途中まで潮田小学校の近くに住んでいました。『鶴見線物語』の中にも潮田付近の話が何度も出てくるので、とても興味深く懐かしく読みました。
 ところで、鶴見線ですが、近くに住んでいたわりには一度も乗った事が無いように思います。鶴見駅の鶴見線ホームの風景が私の頭の中に焼きついているので、もしかすると一度くらいは乗ったのかもしれません。30年以上も前の話で、真実は思い出せません。
 鶴見区の潮田近辺は、在日朝鮮人・在日韓国人の方々の多く住む地域でもありました。子どもの頃は、その理由を問う事も無かったのですが、今回この本に書かれている文章を読み、あらためてその歴史的背景を認識しなおしました。
 戦時中の空襲の体験談は、自分が住んでいた土地の近くの話でもあることから、とても真に迫り、印象強く読みました。
 今度いつか、鶴見線に乗りに行ってみたくなりました。
 

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2006年2月12日 (日)

『羞恥心はどこへ消えた?』 菅原健介著

Shuuchishin 読みました。
 「ジベタリアン、人前キス、車内化粧、車内飲食etc. 《恥の基準》が変わり始めた」という宣伝コピーに惹かれて読んでみました。

 自分が失態を演じたときにの恥ずかしさの度合いと言うのは、「相手との関係の重要度」と「自己への評価の不安程度」の積の関数となると著者は紹介しています。
 すなわち自分にとって重要な人の前でする恥の方が、自分にとってそれほど重要でない人の前での失態よりも、手痛く感じます。また、長い付き合いで、信頼関係が気づかれていれば、多少の失態を犯してもその1点だけで自分の評価が極端に下がる事がありません。
 日本人の人間関係を「ミウチ(身内)」「タニン(他人)」と分けると、その中間に位置するものとして「セケン(世間)」という領域があるとして説明を進めています。その「セケン」に当たる人たちと言うのが、関係の重要度からも自己への評価の不安程度からも、「そこそこ」の関係であり、まさに恥ずかしいところを見せたくない相手であります。
 この「セケン」に当たるのが、少し前までは地域社会の人たち、隣近所の人たちであったわけです。
 しかし、最近の地域社会とのかかわりをあまりもたない傾向は、こういった「セケン」という存在をとても局所的なものとしてしまいました。
 それゆえ、一歩家を出れば、そこは「タニン」の集まりであり、恥を恐れて人の目を気にする必要もなくなってしまっています。

 以下の部分は、本書の著者が『世間体の構造』(井上忠司 著)から引用している部分で(私が引用してくると孫引きになるわけですが)、私がこの2〜3年ずっと考えている事を言葉にしてくれたような内容です。

 「はじ」は、一般に、他者の一種特別の<まなざし>にとらわれる事から生じる。見られているかぎり、人はいつ、はずかしめをみないともかぎらない。他者のまなざしは、見られるがわの自由を大いに拘束する。この不自由から逃れようとした人たちが選んだ道は、他者との人間関係をむすぶことを少なくして、他者に見られないことからくる自由を大きくすることであった。都市化現象の著しい――つまり、「タニン」同士の集まり住む機会が激増した
――今日のわが国では、総じて言えば、この見られないことからくる自由の拡大と言う方向に、着実に向かっているように思われる。
 他人から、とやかく言われたくない、プライベートをのぞかれたくないと言う思いは、人間関係を疎遠な方向へ向かわせますが、疎遠な人間関係の中では、人はずうずうしくなり大胆な振る舞いも平気で行ってしまうと言う事のようです。

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『舞台は語る』 扇田昭彦著

『舞台は語る』 扇田昭彦著 読みました。
 『劇団四季と浅利慶太』(松崎哲久著)『日本の現代演劇』(扇田昭彦著)と合わせて、Amazonで3冊まとめ買いをして、一気に3冊読みました。よく著者を確かめずに買ってしまったので、『日本の現代演劇』と『舞台は語る』の2冊が、同じ著者の本であるということに、本が届いてから気が付きました。
 同じ著者の、似たような内容の本なので、『日本の現代演劇』と重複するところがだいぶありました。
 筆者も、「おわりに」で『日本の現代演劇』について触れています。筆者の説明するに、2冊の書の違いとしては、『日本の現代演劇』では、1960年代以降の「小劇場運動」を中心に記述しているのに対し、『舞台は語る』は「新劇」と「ミュージカル」にも触れていて、現代演劇全般を幅広く扱っています。また、『日本の現代演劇』は時代の流れに沿って書かれた演劇史であるのに対し、『舞台は語る』はテーマ別、キーワード別の章立てとなっています。
 3冊の新書を読むきっかけとなった動機は、『オペラ座の怪人』を観劇した際に、劇中で歌われる歌が、あまりにも「歌曲」的に歌われる事に違和感を覚えた事です。この歌い方は、「オペラの歌い方」なのではないかなぁ……、と思いました。と言っても、私にはオペラを鑑賞した経験も無く知識もありません。
 本書では、オペラとミュージカルの違いを次のように説明しています。すなわち、オペラは
「基本的に全編を歌でつづる」ものであるのに対し、ミュージカルは「基本的にセリフの間に歌とダンスをはさむ形式をとる」ものであると。(p169)
 しかしまた、その段落に続けて、「だが、『キャッツ』『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』を始めとして、1980年代に世界のミュージカル界を席巻したロンドン・ミュージカルは、セリフの部分も歌で歌うオペラ形式をとる事が多い」とも付け足しています。
 そして、その中でも最もオペラ的なミュージカルが『オペラ座の怪人』である(p170)とも述べています。
 『オペラ座の怪人』の作曲家、アンドリュー・ロイド・ウェバー自身が「私の作品とオペラとの間に境界線を引くのは難しい。引き受けた事は無いが、これまでもオペラハウス用の作品を依頼されたことは何度もある。」と話しているそうです。(p172)
 私が「ミュージカルとはこういうものだ」と思っていたのよりも、大きくそして自由にその境界を超えたのが『オペラ座の怪人』である、と言う事なのかもしれないと理解しました。


■静岡文化芸術大学(文化政策学部教員紹介):扇田昭彦

(^o^)丿meeさんのブログで、オペラとミュージカルの違いが明解に説明されています。とても参考になりました。
■dress-up-smartly:オペラとミュージカル

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2006年2月 8日 (水)

『日本の現代演劇』 扇田昭彦著

『日本の現代演劇』 扇田昭彦著 読みました。
 1960年代から1990年代までの「小劇場演劇」の歴史が書かれています。1961年生まれのワタクシはせまなの生きてきた時代とちょうど重なり合うので、興味深く読みました。
 「つかこうへい」と「野田秀樹」が大きな時代の区切りだったのかなぁと読みました。
 テレビや映画で見た事のある名前や、活字媒体で見た事のある名前などがたくさん出てきて、それぞれの役者が「小劇団」出身であった事を初めて知ったという事も、たくさんありました。 


■静岡文化芸術大学(文化政策学部教員紹介):扇田昭彦

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2006年2月 5日 (日)

『劇団四季と浅利慶太』 松崎哲久著

『劇団四季と浅利慶太』 松崎哲久著 先日(1月7日)電通四季劇場「海」『オペラ座の怪人』を観てきました
 当日、朝37度9分の熱を出して、解熱剤で無理やり熱を下げて劇場に向かったという、余り良くない体調で見たせいか、期待していたほどの感動をえられませんでした。そして、これが劇団四季なのかなぁ……と、疑問符がいくつも頭の中に浮かんできました。
 そんな疑問に答えが見つかるかもしれないと、この本を読んでみました。

 筆者は、政治評論を書いている方のようで、本書の内容は、もっぱら劇団四季の経営について書かれているような印象を受けました。いかにして、演劇をビジネスとして成り立たせるか、その困難を乗り越えてきた過程がよく分かります。
 また、浅利慶太と政治とのかかわりについては、あとがきに短く触れられているばかりで、不満を覚えました。

 「モトシキ」、「四季節」、「ストレートプレイ」など、新しい言葉も本書で覚えました。
 「モトシキ」とは、「元四季」のことで、劇団四季を退団して四季以外の舞台で活躍している役者のこと。(p63)
 「四季節」とは、劇団四季独特のセリフの「朗唱法」で、「母音を一音一音粘着させない事を基本とする」ものを、揶揄して呼んだもの。(p11)
 「ストレートプレイ」とは、「ミュージカル・プレイではない台詞中心の芝居」のこと。(p164)

 「モトシキ」として、本書で列挙されている俳優は、鹿賀丈史、久野綾希子、市村正親、山口祐一郎、芥川英司堀内敬子、今井清隆などがいます。このひとも四季出身だったのかと改めて知ることになりました。(p66)

 『オペラ座の怪人』を観たとき、劇場の舞台が小さいなぁと思いました。何しろ、今まで見たミュージカルは、帝劇とか、青山劇場とかのものだったので、そういう大きな舞台に較べたら、ずいぶんとこじんまりと感じられました。ところが、本書によると、これは観客が舞台をより見やすくするための設計であるのだそうです。舞台の間口を広く取れば、それだけ客席は多く取れるものの、左右の距離が長くなって、前の方の席でも、舞台の反対の端からは遠くなってしまう。それを避けるために、舞台の間口は狭くしているのだそうです。また、舞台の高さを、高く取る事で、演出の幅が広がるように設計されているそうです。(p119-121)
 確かに、今回見た『オペラ座の怪人』でも、舞台が立体的に、縦方向にも有効に使われた演出であったと思います。

 劇団四季がミュージカルだけでなく「ストレート・プレイ」も行う劇団であるとは知りませんでした。ミュージカルの演目が極端に多いのは、単に、ミュージカルの方が客が入り、興行的に成功するからのようです。
 ここで、私の今まで持っていた先入観が否定されました。ミュージカル好きは、マニアックな人たちだと思っていたからです。ところが、ストレートプレイよりもミュージカルの方が客が集まるというのは、私には意外でした。

 私が、『オペラ座の怪人』を観て抱いたいくつかの疑問は、本書で、その答えを得ることが出来ました。が、しかし、まだ解決しない疑問もあります。ミュージカルで歌われる歌で、どのように感情を表現して「台詞」としているのか。そのあたりの表現方法に、劇団四季と、東宝ミュージカルなどの他のミュージカルと差があるのか否か。
 疑問の答えを見つけるには、もう少し調べてみないといけないようです。


松崎哲久のページ

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2006年1月30日 (月)

『帰ってきたもてない男 ―― 女性嫌悪を超えて』 小谷野敦著

KaettekitaMotenaiOtoko 読みました。
 この本の前作である『もてない男 ―― 恋愛論を超えて』も読んでいたので、本屋の店頭でこの本を見つけたときに、「これは読まなきゃいけないなぁ」とすぐに買う事に決めました。「帰ってきたぞ!――闘うまえがき」の中で、前作『もてない男』の中の冗談と本気の区別がわからないと読者に言われたので、この本では「基本的に冗談抜きで書いてみようと思う」と書かれているのだが、実際は冗談というかふざけた文章も随所にちりばめられていて、読みながらニヤリ笑う事が多かったです。
 ニヤリ笑ってしまうのは、もちろん私の身に覚えがあるからであって、私もやっぱり「もてない男」なんです。疑いも無く。


■国際日本文化研究センター:客員助教授:小谷野敦

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2006年1月25日 (水)

『無思想の発見』 養老孟司著

『無思想の発見』 養老孟司著 読みました。
 ちょっと、じっくり考えてみないとよく分からない内容でした。
 『超バカの壁』の「あとがき」に「『超バカの壁』と『無思想の発見』は、内容の一部が重なっている」と書かれていました。「興味のある読者は比較してくだされば……」と書かれていたこともあって、この『無思想の発見』を読んでみる気になった次第です。

 私がよく分からなかったのは、何を批判する対象として想定しているのかがよく分からなかったことが、一番大きな理由です。
 日本人の多くが無思想である事、そのことの良い点、悪い点を書いているようですが、それが中心ではないようにも思います。感覚世界と概念世界の問題、多様性と一様性……。もう少しよく考えないと、私は理解できていないようです。 
 
 思想と対になるものとして、現実を挙げます。その現実とは、実は「世間」のことだと養老氏は言います。そして、思想と世間は、実は対立するものではなくて、補完的な関係であるといいます。
 どうも、このあたりの論理が、私には、すっと理解できません。

 印象に残った一節(と言っても養老氏が引用した部分ですが)、書き写しておきます。

「小林(よしのり)がたどった道筋(転向?)は、戦前より連綿と続く「政治的ロマン主義」の常道ともいえるものだ。ここでいう政治的ロマン主義とは、特定の思想にもとづいて世界・社会を超越(非内在)的に捉える態度を拒絶し、自らの立ち位置の偶然性(コンティンジェンシー)をアイロニカルに見据える「反思想としての思想」のことをいう。戦前でいえば保田與重郎や横光利一、中井正一、戦後でいえば福田恆存や江藤淳、そして数知れぬ「敗れ去った闘士たち」。ロマン主義者たちは、けっして体制に迎合する「守旧主義者」なのではない。」

 他人が行っている動作を見ているだけで、あたかも自分がその動作をしているかのように神経が興奮する「ミラーニューロン」。このことから類推して、人間は、五感以外の部分でも、コミュニケーションを行っているのではないか、という「仮説」を述べています。その考えは、とても興味深く思いました。
 極論すれば、一種のテレパシーのようなもので、集団の中で人間は表現をやり取りしているのではないかという考えは、いまのところ非科学的でありますが、面白い考えです。

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2006年1月21日 (土)

『援交少女とロリコン男 ロリコン化する日本社会』 圓田浩二著

『援交少女とロリコン男 ロリコン化する日本社会』 圓田浩二著 読みました。
 『「大人」がいない…』(清水義範著)、『「かわいい」論』(四方田犬彦著)と読んできて、今度は『援交少女とロリコン男 ロリコン化する日本社会』(圓田浩二著)です。なんだか、私は何を考えているのやら……という感じですが。
 面接取材した、5人の少女とひとりの男性の話を中心にして、「援助交際」の実態をルポルタージュしています。
 筆者は、性的に成熟した未成年「少女」との性的関係を肯定するほうに傾いています。
 「少女」という概念は、現代になってからのもので、近代以前には(性的に成熟した)大人と(性的に未成熟な)子どもしかなく、その中間の性的には成熟しているが大人とは認められないという存在は歴史上、新しいものだと指摘します。 近代以前には現代で言う少女期の年齢の女性が結婚したり、あるいは売春したりする事はめずらしくなかったと言います。
 筆者の論理の展開を追っていくと、「援助交際、何がいけないの?」という感じもしてきます。
 この本では、男性である筆者の視点からしか述べていませんので、女性の論者の意見も聞いて見たいと思います。
 また、私が思うには、「社会、あるいは共同体」という側面から、成人男性と未成年女性の性的関係はタブーとされるのではないかとも思います。自分の所属する共同体/社会のなかで、顔見知りの成人男性と、顔見知りの(あるいは親族の)未成年女性とが、性的関係を持つ間柄である事を、許せるものなのだろうか。そんな疑問も浮かびました。
 この本の、インタビュー部分は実に生々しく、私の知らない現実に、圧倒されました。(^^;


■沖縄大学:圓田浩二

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2006年1月19日 (木)

『超バカの壁』 養老孟司著

ChoBakaNoKabe 読みました。
 「まえがき」によると、この本は、『バカの壁』、『死の壁』の続編になるそうです。
 『バカの壁』は私も読んだのですが、『死の壁』は私は読んでいません。『バカの壁』も読んだものの、中身はほとんど忘れてしまいました! (^^;
 第6章で「戦争責任の問題」、第7章で「靖国の問題」を語っています。
 筆者が東大で解剖体の慰霊祭を行った経験から、靖国の問題を論じているのは、ユニークな視点で興味深かったです。特に、無宗教の追悼施設をつくる事は、結局新しい「国家宗教」のようなものを作ってしまうだけだから、無宗教の追悼施設ということは問題の解決にはならないと指摘していたのは、先日読んだ高橋哲哉の『靖国問題』で論じていた事と同様の指摘で、改めて無宗教の追悼施設という案の欠点を認識しました。


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2006年1月15日 (日)

『「大人」がいない…』 清水義範著 / 『「かわいい」論』 四方田犬彦著

『「大人」がいない…』 清水義範著 通勤電車の中で読むために、そう難しくない軽い読み物を買おうと、会社帰りに本屋に寄りました。家で夕飯を作って家内が待っているので、あんまり長い時間、寄り道が出来ないので、ろくに中身を吟味せずに、題名と表紙や帯に書いてある宣伝文だけで選んで、新刊の新書を2冊手にとってレジに並びました。
 この『「大人」がいない…』と『「かわいい」論』です。
 偶然にも、この2冊の本は、似たようなことを論じていました。
 日本は、幼いこと、未熟な事を、「かわいい」として、評価する文化がある。それゆえに、子供向けの文化が成熟し、サブカルチャが発展してきた。それは、日本が外国に較べ特に発達している部分であり、日本製のアニメ映画や、ピカチュウとかキティちゃんのようなキャラクターを輸出する事になった、と言います。
 そして、その幼さを否定しない、評価する文化が、同時に、日本人の成熟を阻んでいる。日本人に、「大人」がいないと言う事は、サブカルチャの隆盛と表裏をなすものであるようです。
KawaiiRon 『「おとな」がいない…』の方では、生物学のネオテニーという考えを紹介し、その類推で日本人の成熟が阻害されていることを考えていきます。「ネオテニー」とは「幼形成熟」と訳されるもので、動物が幼形を保ったまま性的成熟に達し生殖を行う現象です。生物は厳しい環境下では、そのなかで生き抜くために変態したりして体を環境に合わせるのだが、環境が厳しくないときは変体を省略するそうです。日本人も、あえて「大人」にならなくても、生活していける環境のために、「大人」にならなくなったのではないかと示唆しています。
 現在、日本発のサブカルチャの製品を輸入している国も、そうした社会の成熟(爛熟?)のためゆえに、キティちゃんや、宮崎アニメを受け入れているのでしょうか。
 『「かわいい」論』では、世界に輸出された、ピカチュウやキティちゃんの文化も、それらを受け入れる年齢層が、国により微妙に異なることを指摘しています。アメリカでは、キティちゃんに夢中になるのはせいぜい12歳程度までであるのに対し、アジアの国々では日本と同様にハイティーンや若者にまで支持されているようです。
 また、どちらの本も、日本に昔からあった、根付などの小さなものに細工をほどこすことの技術や情熱を特筆しています。

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2005年12月18日 (日)

『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』 橋本治 著

『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』 橋本治 著 この本の「はじめに」で筆者が書いているのですが、この本は『「わからない」という方法』『上司は思いつきでものを言う』の2冊と合わせて3部作の完結編になるそうです。何をテーマとした3部作なのかは、「書き手の私によく分かっていない」などと筆者は相変わらずの(?)とぼけた事を書いています。
 この本で書かれていることは、経済を、「考えてみる」という、知的なゲームのようです。
 結論だけを取り上げてしまえば、『「我慢する」ということを復活させる』という、ちょっと物足りない結論ですが、そこに至るまでの議論の展開は、とても面白く発見があふれています。


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『靖国問題』 高橋哲哉 著

『靖国問題』 高橋哲哉 著 「靖国問題」を「感情の問題」、「歴史認識の問題」、「宗教の問題」、「文化の問題」、「国立追悼施設の問題」の5つの側面から論考しています。(上の五つは、それぞれ章の名前になっています)
 この本のカバーに書かれている著者紹介によると、著者は、NPO「前夜」共同代表として、雑誌『前夜』を創刊。東京大学大学院総合文化研究科教授、と書かれています。
 「靖国問題」の入門として読んでみたのですが、良く整理されていると思いました。
 本の帯にかかれているように「哲学で斬る」というアプローチで、論理的に議論されています。
 「A級戦犯」を分祀したり、非宗教の国立追悼施設をつくる事でも、筆者の論に寄れば、戦没兵士を祀るということそのものの持つ問題は解決できないようです。
書評 『靖国問題』 高橋哲哉

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2005年12月11日 (日)

『<私>の愛国心』 香山リカ 著

<私>の愛国心 『ぷちナショナリズム症候群』(香山リカ著)に続けて、この本も読んでみました。
 こちらの方が、『ぷちナショナリズム症候群』よりも、より危機感が強くなっています。

 また、ノンフィクション作家の吉岡忍は、さらにはっきりと「人々が「自分以外はバカ」という気持ちになるのは、バカに見られる機会が多いから」と断言する。成果主義で「勝ち組」「負け組」が明白に二極分化する社会の中で自分を守るには、弱みを見せずに攻撃的になるしかない。
 そこで「自分以外はバカ」と決めつけることで、「自分はバカではない=「負け組」ではない」と自己確認するのだ。そこでは、相手の立場に立って考えたり、「私にもほかの人たちと同様、欠点もあるのだから」などと我が身を振り返ったりしている余裕はない。そうした瞬間に、自分は「負け組」に転落してしまうからだ。
 たしかに「攻撃は最大の防御なり」というか、他者の欠点を指摘することで自分を棚に上げて自己正当化を図る、という手法はこれまでもあったはずだが、ここまで悪し様に他者を「バカ」と切って捨てるようになったのは、ごく最近なのではないだろうか。

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2005年12月 8日 (木)

『ぷちナショナリズム症候群』 香山リカ 著

ぷちナショナリズム症候群 『下流社会 新たな階層集団の出現』(三浦展著 光文社新書)で言及されていた事もあって、読んでみました。前から、気にはなっていたのですが、なんとなく読む前から中身を想像してわかったような気になっていました。「きっと、こんなことが書いてあるのだろう……」と。
 読んでみて、その予感は半分正しく、半分間違っていたようです。
 この本で指摘されるまで、そんなに問題だと思っていなかった「ぷちナショナリズム」でしたが、香山リカの説を読むと、危険な前触れに思えてきました。その一例をあげると、サッカーワールドカップのサポーターが振っていた日の丸の旗は、神道青年全国協議会が用意したものなのだそうです。
 また、「崩壊するエディプス神話」と題する章で、最近の若者が、エディプスコンプレックスを体験せずに大人になったのではないかと思われる事例がたくさん見受けられるとの指摘があり、これが自分を律する「超自我」の無い(あるいは弱い)若者が増えていることと符合すると思いました。モラルの低下もこれに起因するのでしょう。
 そして、香山リカは、日本社会で階層化が進み、現代社会から疎外されているものほど、日本人と言うアイデンティティに最後のよりどころを求めるのではないかと示唆しています。

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2005年12月 4日 (日)

『「人間嫌い」の言い分』 長山靖生著

 『「人間嫌い」の言い分』(長山靖生 著)を読みました。
 第1章の冒頭は、次のような作者の告白で始まります。

 すごく恥ずかしい話をする。私は昔、文士に憧れていた。別に有名になりたいとか、お金持ちになりたいと思ったわけではない。第一、どう見ても文士は儲かりそおになかった(今も昔も)。むしろその経済状況はフリーターに近いだろう。
 だが、儲からなくてもいいから、満員電車に乗らず、狭い部屋のなかでボーと暮らしていたかった。これではフリーターどころか、ひきこもりである。
『「人間嫌い」の言い分』 長山靖生著 実は私も、高校生、大学生の頃、小説家や詩人になりたいと思っていました。
 そして、その理由は、まさにこの作者の告白と同じような理由だったような気がします。

 私は、どうも集団で集まってワイワイ楽しむことが苦手です。パーティーとか宴会と言うのが、どうも好きになれません。居心地が悪い。
 相手との間の取り方が、上手くない。あまり個人的なことを聞くのも失礼だし、かといって、お天気の話ばかりでは、そうそう長く会話が続かない。
 仕事上の付き合いだと、仕事の話題になってしまう。会社を出てまで、仕事について議論するのも、私には、ちっとも面白くないのです。

 このような、人付き合いが苦手な性格を、自分自身好きではないし、評価もしていません。恥ずかしいと思っていました。
 しかし、そのような人こそが自立した自我をもつ近代人であると、自信を持たせてくれるのが、この本です。

 この世には二種類の人種がいる。団体行動が苦手な人と、団体行動が好きでたまらない連中とである。後者はとにかく人が集まっているのが好きで、逆に誰かとつるんでいないと不安になる。前者はいうまでもなく人間嫌い系であるが、後者を本書では「つるみ系」と呼ぶことにする。人間嫌い系の人々のなかには本当は人間嫌いではなく単にシャイなだけという人も多いし、つるみ系だからといってコミュニケーション・スキルが高いとは限らない。むしろ自分勝手に騒がしくて、はた迷惑なだけという事例もある。だが、自意識のありように照らし合わせて、便宜上、このように分類することにする。
 世間で、どちらがよしとされているかというと、断然、つるみ系である。それは協調性、フランク、コミュニケーション・スキルが高いとして、もてはやされる。こうした人々が会社家族主義で盛り上げてきたのが日本型経営であり今日の経済繁栄(もっとも、今ではだいぶ翳っているが)だといわれてきた。だが、過度のお付き合い重視こそが、経済を衰退させ、文化を滅亡に導きかねない負の因子ではないか、と人間嫌い系からは見えるのである。
  

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2005年12月 3日 (土)

『考えないヒト』 正高信男著

『考えないヒト』 読みました。興味深かったです。
 ケータイで人は退化するのでしょうか。
 車や飛行機の発明のために、人間の足は退化したのでしょうか? 
 

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『告白』 チャールズ・F・ジェンキンス著

『告白』 チャールズ・F・ジェンキンス著 読みました。
 北朝鮮での生活ぶりが、民主主義の国に暮らす者から見ると監獄生活のようです。一日も早く、北朝鮮が民主化されることを願います。

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2005年11月23日 (水)

『下流』は自民党とフジテレビが好き

下流社会 新たな階層集団の出現』 三浦展著 光文社新書 より

 実際、「欲求調査」 でも、先述したように団塊ジュニア男性の「下」ほどスポーツ観戦が好きであり、またフジテレビをよく見ている。具体的に言うと、「朝のニュースを見るテレビ局」としては、「上」は33・3%がNHKで最も多いのに対して、「下」は39・6%がフジテレビなのである。
男性・世代別 よく見るテレビ局
 団塊ジュニア
世代
新人類世代団塊世代昭和ヒトケタ
世代
1240481648361448375634
朝のニュース
NHK33.327.510.418.820.825.057.152.137.877.869.673.5
日本テレビ 8.322.510.412.516.713.914.325.032.422.214.3 8.8
TBS16.7 7.5 8.3 0.0 6.313.9 7.1 0.0 2.7 0.0 0.0 0.0
フジテレビ16.727.539.637.535.4 8.314.310.416.2 0.0 5.4 8.8
テレビ朝日 8.3 5.012.5 6.3 6.3 8.3 0.0 2.1 2.7 0.0 5.4 2.9
テレビ東京 8.3 5.0 4.2 0.0 4.2 2.8 0.0 2.1 0.0 0.0 0.0 0.0
その他 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 5.6 0.0 2.1 0.0 0.0 3.6 0.0
朝、ニュース
は見ない
8.3 5.014.625.010.422.2 7.1 6.3 8.1 0.0 1.8 5.9
夜の番組全般
NHK25.017.512.531.316.719.435.741.729.777.837.552.9
日本テレビ 8.3 2.5 6.3 6.3 6.311.1 7.112.5 8.111.119.6 5.9
TBS 8.3 0.012.5 0.0 6.3 5.6 7.1 8.3 5.4 0.0 7.1 8.8
フジテレビ33.355.533.325.035.422.2 0.018.821.6 0.012.5 0.0
テレビ朝日 16.715.025.025.022.922.228.6 8.318.9 0.014.320.6
テレビ東京 8.3 7.5 6.3 0.0 6.311.1 7.1 4.210.8 0.0 3.6 5.9
その他 0.0 2.5 0.0 6.3 2.1 0.014.3 2.1 5.411.1 1.8 5.9
夜にテレビ
は見ない
0.0 0.0 4.2 6.3 4.2 8.3 0.0 4.2 0.0 0.0 1.8 0.0
 また 「夜の番組全般でよく見るテレビ局」は、「上」 はフジテレビが33・3%、NHKが25・0%だが、「中」 はフジテレビが55・0%、「下」 は33・3%である。
 ちなみに昭和ヒトケタ世代は階層意識にかかわらず朝も夜も男女ともNHKを見る者が多い。それに比べると、団塊ジュニアは階層意識が高くないとNHKを見ないのだから、視聴率が低下するのは当然である。
男性・世代別 支持政党
 団塊ジュニア
世代
新人類世代団塊世代昭和ヒトケタ
世代
1240481648361448375634
自由民主党 8.315.018.825.012.530.621.416.713.566.744.635.3
民主党6.72.518.825.014.611.121.431.321.633.332.126.5
公明党0.05.02.1 6.3 2.113.9 7.1 4.2 2.7 0.0 3.6 2.9
日本共産党 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.014.3 2.1 5.4 0.0 7.1 5.9
社会民主党 0.0 2.5 0.0 0.0 4.2 2.8 7.1 4.213.5 0.0 7.1 5.9
その他 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0
特に支持して
いる政党は
ない
75.067.560.450.070.852.835.750.051.4 0.023.235.3
 さて、次に支持政党を見ると、団塊ジュニア男性の 「下」 では自民党が18・8%、民主党も18・8%と、支持政党を表明する傾向が強い。
 逆に 「上」 では自民党が8・3%、民主党が16・7%であり、支持政党なしが75・0%と「中」や「下」よりも多い。
 このように、今回の調査結果に関する限り、団塊ジュニア男性の 「下」は政治意識が強く、フジテレビが好きで、スポーツ観戦が好きということになる。
 これはある意味で、非常に現代的な風景、つまりまさに香山リカのいう、「ぷちナショナリズム」的な風景であるとも解釈できるだろう。
大島豊! さっさと会社を辞めちまえ! ベストセラーになっている『下流社会』を、私も読んでみました。
 この本の冒頭にある「下流度」チェックで、私は12項目中10項目に当てはまり、私はかなり「下流的」であるようです。(^^;
 この引用部分で、朝のニュースでは、NHKが、広い世代で見られているのが、私には改めてオドロキでした。最近のNHK料金不払いの問題などで、「NHKなんて見ていない」と言う意見も散見していたのですが、「なぁんだ、結局みんな、NHKを見ているじゃん!」と思いました。
 私は、どちらかと言うと、朝は、NHKニュースよりも、「ズームインスーパー」の方が好きなんですが、家内は「NHK派」なのです。ウチのテレビは、2つのチャンネルを2画面同時に表示する機能があるので、NHKと日本テレビを同時にかけています。(^^;

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2005年11月19日 (土)

『いまどきの「常識」』 香山リカ著

いまどきの「常識」』 香山リカ著 (岩波新書)より
『いまどきの「常識」』 香山リカ著

 日本では犯罪の被害にあった人やその家族に対する配慮や心のケアが、これまでおろそかにされてきた。「加害者側の人権」を守るシステムはあるのに、被害者や家族は顔も名前もメディアで公開され、凄まじい取材攻勢を受けることもある。とくに少年事件では、被害者の家族は審判を傍聴することもできず、少し前まではその記録を目にすることさえできなかった。さらに、加害者が一定年齢に達していなければ、少年法によって刑事罰を免れることもある。被害者やその家族の「心の痛み」にもっと目を向けよ、という声があがるのも当然だろう。
 ただ、ひとつだけ不思議なことがある。それは、この「被害者や家族に配慮しょう」という動きは、なぜか「加害者の人権には配慮しないでおこう」という動きとセットになっている、ということだ。単純に考えれば、被害者や家族の心情に思いを馳せ、なんとかしたいと思う豊かな想像力や繊細さがあれば、「なぜこんなことをしたのか、今はどういう気持ちなのか」と加害者やその家族の心情にも想像が及ぶはずなのではないか。ところがそうではなく、「被害者を思う」ということは「加害者は思わなくていい、思ってはならない」ということと連動しているのだ。
 とくに少年事件の加害者に対して「厳罰化」を求める声は大きく、この動きを受けて、二〇〇〇年には刑事罰を加える年齢を下げるなど少年法の一部改正が行われた。現在も、より厳罰化の方向へと検討が行われている。
 最近、大学の授業でときどき、難病やトラウマと闘う人たちの記録映像を見せて、「もしあなたがこの人の立場だったらどうするか」と考えてもらうのだが、どの大学でもこういう答えが目立って増えてきている。
 「私は、その病気になったことがないので、患者さんの気持ちはわかりません」
 自分とは少しでも異なる立場や状況にある人の心情を想像する気が、最初からないのである。そういう学生たちも、自分に近い年齢の登場人物が出てくる純愛小説には「泣けた」と大騒ぎしているところを見ると、どんな場合でも感情移入したくないと思っているわけではないのだな、ということはわかる。ただ、「想像し、感情移入してもよい」と思う対象が、きわめて限定されているのだ。
 『かなり気がかりな日本語』(野口恵子著)を読んでいて、香山リカのこの本にも「人の気持ちを推し量ることの出来ない人が増えているのではないか」と思わせる記述があったのを思い出しました。
 「相手も自分と同じ人間である」と言う風には考えられないのでしょうねぇ。自分は絶対に犯罪など起こさない、だから犯罪者の気持ちなんてわからない。
 イラクの戦争の前に、いかにフセインの政治が悪いものかを「紹介」するテレビ番組で、イラクで行われていた公開処刑の様子を放映していたのを思い出します。最近の日本人の中には、そのような公開処刑を喜んで見るような人が多いのではないでしょうか。犯罪者が、目の前で苦しみに、のた打ち回るのを眺めて、爽快感を得るのではないでしょうか。当時のイラクとは違う、民主主義も、人権感覚も、意識が高いはずの日本で。

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2005年11月18日 (金)

『かなり気がかりな日本語』 野口恵子著

かなり気がかりな日本語』 野口恵子著 (集英社新書)より。『かなり気がかりな日本語』 野口恵子著

 電車が遅れたために遅刻してきた学生が、つかつかと教卓までやってきて、鉄道会社発行の遅延証明書を黙って突き出す。私が黒坂に向かっていたり何かを説明していたりすると、その間、何も言わずにじっと立っているか、あるいは証明書を置いて黙って自分の席につく。授業の終了後に来る場合も同様に、無言で証明書を差し出して帰ろうとする。クラスの規模が小さくて学生の顔と名前が一致していたとしても、複数の学生にそれをされると混乱が生じる。大きな教室ではなおさらだ。
 名を名乗ってから、「○○線が遅れて遅刻しました」と言い、証明書に学籍番号と氏名を記入して置いていく者もいるが、私の見たところ無言派のほうが多い。彼らは察してほしいのだ。「電車が遅れたのですね。わかりました。あとで出席簿につけておきます。遅刻扱いにはなりません」と言ってほしいのである。このとおりロに出さなくても、何もかも承知しているという意でうなずけば、彼らは安心する。
 無言のまま遅延証明書を差し出す学生は、言葉を尽くさずに相手が察するのを待つのだが、自分は相手の思惑を推し量る努力をしていない。複数の遅刻者がいて無記名の証明書が何枚も教卓に置かれているのを見て、何かを察することはない。これは「訓練というより習慣の問題だ」と先に書いたが、彼らのそばにはいつも、何も言わなくても察してくれるだれかがいたのだろう。そしてそのだれかは、彼らが何かを察する努力をする必要もないほど、次から次へと彼らに言葉を浴びせ続けていたのかもしれない。もしそうであれば、彼らはひたすら人に察してもらうという生活、まわりからの指示を待ち、そのとおりのことをこなしさえすればよいという生活を送ってきたことになる。そこには、他者の心中を慮ったり意図を推察したりしなければならない理由も、またその余地もなかったのである。
 他人の気持ちを考える事の出来ない人間が増えているのですね。何にも言わずに遅延証明書を突き出す大学生の存在には、愕然とします。
 ネットで、口語体の砕けた表現で、あるときはとても尊大な表現をしていたりするブログなどを見かけますが、彼らの中の全部とは言わないまでもその何割かは、そのような文章しか書くことが出来ない人たちなのではないか……、そう思い至りました。自分の書いたものを、読む人がどのように思うかを、これっぽっちも考えないで書いている人たちが、案外多いのではないかと。

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2005年9月22日 (木)

『あの戦争は何だったのか』 保坂正康著

『あの戦争は何だったのか』 保坂正康著・新潮新書 読みました。
 よく整理されてまとまっていると思います。
 ひとつひとつの歴史的事件は聞いたことがあっても、こうやって整理されて、歴史の順序を知ることによって、新しい発見がありました。

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2005年5月 7日 (土)

『「負けた」教の信者たち —ニート・引きこもり社会論—』 斎藤環 著

本書より

 ある大手企業に勤務する知人に聞いた話である。最近の新入社員は、なにかができないことを堂々と宣言するのだと言う。「それは私の得意分野ではありません!」「その仕事は私の能力では無理です!」などと、あっけらかんと言い放つというのだ。そこにはもはや、学習や修練によって自分が変わると言う期待すら存在しない。まるで「自信がないこと」にかけては誰よりも自信があるとでもいうような、「確固たる自信のなさ」とでもいうべき態度が蔓延しつつあるというのだ。
「負けた」教の信者たち —ニート・引きこもり社会論— この、「確固たる自信のなさ」と「オレ様化する子どもたち」は、表裏一体なのではないかと感じます。自分はこれ以上成長しないと思っていることは、自分はもう完成された立派な個人であると自分を意識する事だと思います。
 

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2005年4月10日 (日)

ケータイメール中毒

『ネット王子とケータイ姫』 香山リカ+森健・著 より

 以前、病院でかかわっていた摂食障害の女子高枚生は、いつもケータイを握りしめ、アドレス帳に登録された二〇〇人を超える″友だち″とつねにメール交換をしていた。しかし、彼女は「この中に本当の友だちはいない」という。では、そんなにメールばかりして、いったい何をやり取りしているのか、と訊くと、こんな答えが返ってきた。「結局、何を話すかじゃなくて、どれくらい速くレスが来るかどうかが、問題なんですよね。相手だってそうだと思う。お互い、向こうが自分にどれくらい気があるか、いつまでもさぐりあってるだけ。それも疲れるけれど、やめると不安」。
 つまり彼女は、関係性がまだ継続されているかどうかを確認し続けているだけで、その関係性を深めることやそこで重要な話をすることにまでは気がまわらない、と言っているのだ。そして、「今この瞬間にも、もう嫌われてるのではないか」という不安がまたメールを打たせる。そのウラには、「いつかは嫌われるだろう」という負の思い込みがある。そういえば彼女が摂食障害に陥ったのも、特別、太っているわけでもないのに、「こんな体型じゃだれにも好かれない」という負の思い込みが原因であった。
 こうやって見てみると、いま少女たちにとってケータイは、友だちとの連絡を取り合うための装置というよりは、「いつ嫌われるだろう」という不安や負の思い込みを少しでも打ち消すための確認装置になっているのかもしれない。もちろん、その装置があるために、不安はよりいっそう増大するという場合もある。

 いまから15年か20年位前、私が大学生であったか、それより少し後のころに、「最近の大学生は……」と言われた大学生の風俗でこんなのがありました。昼飯を一緒に食べる友人がいなくなることを恐れて、昼飯を一緒に食べるために、グループ付き合いをしている若者たちの話です。ひとりぽつんと学食で食事をしている事が、自分には友人がいないのだと言う事を、さらけ出しているようで、そのような事態になるのを恐怖する若者たちがいました。若者と言うよりも、若い女性だったかもしれません。
 3年ほど前、家内のいとこの女の子が神奈川県にある大学に合格して群馬県から上京してきました。そのときに、彼女のプリクラのアルバムを見せてもらいましたが、そのものすごい数のプリクラ写真に驚きました。そして、写っている人が誰であるかを聞いてみると、私から考えたらとても友達と呼ぶには関係が薄すぎて、それじゃただの知り合いではないのか、と思う人が多く写っていました。私と家内が、旅行先でいたずらに撮ったプリクラも、ぜひ欲しいとせがまれて分けてあげました。いとこと言っても年が20歳近く離れたいとこ夫婦のプリクラでも、アルバムを埋めるのに、不適格ではないようです。
 どうも、友情の感覚が、私と現代の若者とは、ずれているようです。
 友達が、100人も200人も居るなんて、私には不思議です。単なる知り合いなら、そのくらいの数を集めることが出来るかもしれませんが、100人も200人も、それって本当に友人なんでしょうか。

 実は、ここまでは、前置き。閑話休題
 MyClip経由で、『mixiに気をつけろ!』というブログ記事(ブログ名:吉村智樹の原宿キッス〜うれしはずかしな日々〜)を読みました。
 mixiのコミュニケーション機能で、メッセージの返信や、日記へのコメントを、常にチェックしていて、mixiの事ばかり考えて、生活に支障をきたしそうになる人が、多く居るという指摘です。
 携帯メールの「中毒」になるような、友情観を持っている人は、mixiにハマってしまうと、大変なことになってしまうのかもしれません。
 mixiに招待する方としても、十分に大人の人を招待しないと、あとでいやな気持ちを味わうことになるのかもしれないです。

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2005年3月27日 (日)

『希望格差社会』 山田昌弘著

『希望格差社会』 山田昌弘著 MyClip経由でこちらのブログを会社で読んでいたら、「いまどき『希望格差社会』なんて調べているんですかぁ。遅いですよ」と若い子に言われてしまいました。ブログに書かれていた書評が興味深かったので、amazonで取り寄せてみました。
 この『内田樹の研究室:希望格差社会』は、ブログの記事単独でも、とても良くまとまっていて、良い書評です。お時間がある方は、一読してみてください。
 私自身の感想は、これから読むところなので、いずれまた。


■内田樹の研究室:希望格差社会

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『オレ様化する子どもたち』 諏訪哲二著

『オレ様化する子どもたち』 諏訪哲二著 子どもへの家庭での教育の基本方針のようなものとして、「『ひと様に迷惑をかけるな』と子どもには常日頃言っています」等と言っているのを、テレビで見たり、実際に現実の生活の中でも知り合いがそのようにいっていたりするのを聞く事があります。そのたびに、「なんか違う」と思ってきました。
 「ひとが見ていなくても、やってはいけないこと」があるし、場合によっては、「世界中の他人を敵に回しても、自己の正義のために、やらなければならない事」と言う事もあると思っています。
 少年犯罪や、青少年の風俗をテレビで扱うのを見ていると、この子どもたちには、そのような「自分を超えたもの」、「自分の損得を超えても行わなければならない正義」、などというものはないのだろうなぁと思っていました。
 この現象の、原因のひとつに、西洋のキリスト教社会のように、絶対的な正義や倫理を説く「機関」が無いからだろうと考えていました。
 そう考えていたところに、この『オレ様化する子どもたち』 は、今まで考えていた事の整理を助けてくれるような本でした。
 この本の中で『「近代」を構成する要素は「資本主義」と「国民国家」と「キリスト教文化」である。』と規定されています。日本には「キリスト教文化」が無かったために、キリスト教文化で教会や牧師が担っていたはたらきを「学校」や「教師」が担ってきたと指摘しています。
 しかし、その学校教育が、経済優先の「消費社会」の時代になって、絶対的な権威としての価値を失ってきて、市場の商品のひとつであるかのように扱われるようになりました。消費社会の市場での売る者と買う者の関係のように、教師と生徒の関係を対等である事を要求し、生徒が思っている自己の価値を下げるような教師の「懲戒」に対して、割に合わないと抗議するようになっていると、筆者は指摘します。
 「おまえ(教師)に、そこまで言われる(扱われる)ような事じゃない」と生徒側は思い主張します。彼らは、教師と言う権威も、学校と言う権威も認めません。判断はすべて、自分にとって快であるか不快であるか、損であるか得であるか、を基準とします。
 筆者は、これらの背景に、産業社会的なものから消費社会的なものへの社会の変化があることを示唆しています。協同して物を作り出すことに比重があった時代から、ものを購入し消費することに比重がある社会への、社会の変化が、子どもたちの変化を促していると考察しています。
 いまや小学生でも、遊ばなくなった古いゲームソフトを売って、その金で新しいゲームを買ったりする事は珍しくないでしょう。成人しなくても、経済社会で一人前の消費者として扱われ、あたかも商品の良し悪しを判断できる一人前の消費者であると、こども自らが自覚してしまう、錯覚してしまうわけです。
 筆者は、産業社会的なものから消費社会的なものへ社会が変化した事により、共同体的なものが失われていったと主張しているようです。この辺のメカニズムは良くわかりませんでした。しかし、大人が共同体的なものを嫌っていると言う事は、実感するところです。マンションの理事会、町内会、PTAのあつまりとか、出たがらないひとが多いと感じています。協同して物事を進める事を、大人たちも嫌っているのではないかと思います。それが、子どもにも、伝染っているのでしょう。
 グループの利益のために、あえて自分が不利益をこうむることも良しとする。共同体を重んじる社会では、そのような事が行われていたでしょう。しかし、社会は、一人一人が、自分の利益を最大限にする事を美徳とする社会になっていこうとしているようです。
 学校の中でも、クラスとしての共同体のまとまりよりも、自分の利益を優先する「法則」が浸透し、自分がおしゃべりをする事が快であれば、授業中でクラスに不利益を与えても、自分の利益を追求する、その事が悪徳であることがわからなくなっているようです。

 この本の指摘している内容は、かなり的確なのではないかと思います。この分野に興味がある方は、ぜひ一読してみてください。


■内田樹の研究室:オレ様化する子どもたち
■今日の滝温泉:オレ様化する子どもたち

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2005年3月11日 (金)

『ネット王子とケータイ姫』 香山リカ+森健・著

『ネット王子とケータイ姫』 香山リカ+森健・著 今日は、腎臓内科の診察の日。いつものごとくの混雑で、予約時間に行っても7人待ちの状況。それで、病院の構内にある書店で、この新書を買って、診察までの待ち時間の間に読んでいました。
 佐世保の小6女児の殺人事件を受けて(と言うわけでもないのかもしれないけれど……)、子供とインターネットや携帯電話のかかわりについて、精神科医の香山リカさんとジャーナリストの森健さんの書いた本。
 診察待ちの間には読み終わらなかったけれども、夕食後読み続けて、さっき読み終えました。
 うちには、子供は居ないので、自分が子供に教育する機会は無いけれど、もし自分に子供が居たら、どう教えていただろうか、想像してみながら読みました。
 ……というか、自分が20年、30年遅く生まれて、いま中学、高校生、あるいは大学生だったら、やはり、ネットや携帯メールに夢中になっていただろうなぁ……と思います。
 香山リカさんも、結婚してないですよね。自分の子供が居ないから言える発言もあるかなぁと思いました。
 

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2004年11月20日 (土)

『生きづらい<私>たち』・心に穴があいている 香山リカ著

生きづらい<私>たち・心に穴があいている 香山リカ はせまなが毎月一度通院している大学病院内にある書店で買いました。先月の診察の日、診察に呼ばれるまで待合室で待っている間に読もうと、買いました。
 講談社現代新書です。装丁のデザインが大きく変わったようです。今まで20年以上慣れ親しんだあのデザインが無くなってしまうのは、少しさびしい気もします。
 香山リカさんは、1960年生まれ。はせまなよりひとつ上です。ほぼ同年代と言うことで、テレビなどで見かけると、注目しています。
 いつも、ニュースショーのコメンテーターをしている姿しか見ていなくて、また今までに読んだ香山リカさんの本も、社会評論的なものばかりであったので、医者としての姿が良く見えないでいました。この本は、香山リカさんの日ごろの診療の様子が垣間見られて、興味深かったです。
 治療を必要とする患者と、治療を受けていない「健康」な人が、同じような悩みを訴えている現状が書かれていました。心の病と健康な心との差があいまいになっているようです。

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