[ 内田樹 ]

2008年10月27日 (月)

『こんな日本でよかったね』 内田樹著

『こんな日本でよかったね』 内田樹著 ブログ「内田樹の研究室」を再構成した本でした。知らないで買ってしまいました。知っていたら、買わなかったかも知れない……。


 この本の中で最も印象的で、読後も何度も頭の中で反芻しているのが、『コミュニケーション失調症候群』(p216)の中の次の部分です。
メッセージの受信者には「複数の解釈可能性のうちから、自分にとって最も不快な解釈を選択する権利」が賦与されているということである。
 コミュニケーション感度の高い人間とコミュニケーション感度の低い人間のどちらがこの権利を活用することになるのか、想像することはむずかしいことではない。
 結果的に私たちの社会はこれから自分宛てのメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択することを政治的に正しく、知的なふるまいとみなす人間たちを量産してゆくことになるだろう。
 「自分の周りには『悪意』を持った人しかいない。自分の周りの人たちの行動の裏には、自分に対する悪意がある」 今の世の中、そう考えがちなのかも知れない。自分を振り返っても、自分のまわりの人間がとった、自分にとって不快な行動は、「自分に対する敵意が潜んでいるのだ」と考えがちのような気がするのです。でも、「悪意がある」という判断は、正当で客観的なのだろうかと疑ってみると、客観的でないような気もします。
 満員電車の通勤電車の中で「いさかい」を起こしているのを、よく見かけます。他人事ではなく、自分自身も、他人のちょっとした行動に、ムカッとすることがあります。他人が自分のことを振り返って見た、ただ後ろが気になって振り向いただけかもしれない状況でも、「睨みつけられた」と思うことがあります。なぜでしょう。
 そして、この「自分宛てのメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとって最も不快な解釈を選択する」というのは、「自分以外はみんなバカ」とういのと同根の心理なのではないかと思うのです。

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2008年7月26日 (土)

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹著

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹著 ブログ『Letter from Yochomachi 』で紹介されていて、読んでみようかなと思ったのです。でも、新書1冊をアマゾンで注文すると、送料取られるので、「今度書店に行ったら探してみよう」と思って、すぐには購入しませんでした。先日、時間つぶしの気まぐれに通勤途中の書店に立ち寄った際、「そうだ、内田樹の新書を買おうと思っていたんだ!」と思い出し、書棚を探したけれど見当たりません。買おうと思う前は、書店で見かけていたのに、いざ買おうと思った時に立ち寄った書店には置いていない。マーフィーの法則にでもありそうなことです。
 内田樹のブログをいつも読んでいます。ブログも面白いです。テレビや、自分の周りの生活圏にいる人からは聞くことのできない、ユニークな視点での社会評論が新鮮です。
 そのブログに、近著の宣伝が書かれていました。『こんな日本でよかったね』という本です。略して『こんたね』。その宣伝読んで、「これと一緒に『寝ながら学べる構造主義』がアマゾンで送料無料で注文できる!」と膝を打ち、パソコンからカタカタ入力して注文しました。
 偶然ですが、予約注文していた「ハリポタ最終巻」『ハリー・ポッターと死の秘宝』と一緒に届きました。


 のべ数時間で読み終わりました。通院している病院の待合室で読み始め、通勤電車の行き帰り1往復半で読み終わりました。やさしい文章ですらすら読めますが、引用されている原文はかなり難解。「寝ながら学べる」かもしれませんが、飽くまでも入門書。この本で得た知識を基礎に、より詳しく説明した本を読まないと構造主義を理解したとは言えないようです。「あったいまえ」ですけれど、「これだけ読めばすべてわかる」とは謳っていないし、そんなことを謳っていたらその本はインチキなのかも。
 マルクス・フロイト・ニーチェから始まり、ソシュールを紹介。そして「構造主義の四銃士」の、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース・ラカンをひとり1章づつ割いて解説しています。この系譜だけでも、きちんと構造主義を系統だって勉強したことなどない私には、ありがたい整理です。人文科学・社会科学系の一般書を読んでいれば、いやでもこれらの名前に触れるはずで、私もこれらの名前を何度となく目にしていたはずなのですが、彼ら構造主義者の思想的位置などまったく理解していませんでした。本書のまえがきで
私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。知りたくないからです。
 より厳密にいえば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。
と書かれています。私もまた、構造主義を「知りたくない」という無意識の拒絶心があったのでしょうか。これはこれで、面白い設問ですが、まだ文章に書いて披露できるほど考えがまとまりません。ただ、無意識の拒絶が心の中にあったのかもしれません。「構造主義」は、自分にとってタブーとなるような主張を含んでいると、直感していたのかもしれません。
 本書を読んでいて、内田樹のブログや何冊か読んだ本に書かれていたことが、構造主義を基礎にしていたことが、改めてわかりました。構造主義を使うと、内田樹のようなユニークな視点で社会を見ることができるのかもしれないと、感心しました。
 本書を読み終わって、内容を振り返ってみると、不思議なことに「全部知っていた」という気持ちになりました。おかしな話ですが、構造主義なんてきちんと勉強したことはないのに、本書で出てくる考え方は、何もいまさら「新しい発見」と言ってありがたく思うものではなく、常識的なことのように思えたのです。
 本書の第1章で書かれているのですが、
いま私たちが生きている時代は「ポスト構造主義の時代」と呼ばれています。(中略)
 「ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(中略)だという風に私は考えています。
 という筆者の言う通りなのかもしれません。
 なぜ、「自明なもの」になっていたのでしょう。不思議です。学問的知見が、一般庶民の「常識」にまで浸透するその機構は、どうなっているのでしょう。知らぬ間に、それを当然と思っているなんて、「洗脳」されていたのでしょうか。
『こんな日本でよかったね』 一緒に買った「こんたね」は、まだ読んでいなくて、これから読むところです。でも、「こんたね」は、ブログが元になっているようですから、もうすでに一度読んでいる文章がたくさん出てくる(すべて読んだことのある文章なのかも……)
 「こんたね」の副題は「構造主義的日本論」です。構造主義を、少し意識しながら読めば、ブログで読んだ時とは別の新しい発見ができるかもしれない。そんな期待をもって、「こんたね」=『こんな日本でよかったね』を読んでみたいと思います。

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2008年4月29日 (火)

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著

Tsukaresugite 1999年の夏に慢性腎炎が見つかり、それ以来ずっと大学病院に通っています。大学病院の待ち時間は長くて、2時間3時間は普通に待たされます。待合室では、居眠りをしているか読書をしているかのどちらかで長い待ち時間をやり過ごしています。大学病院内の構内には、街中の書店並みの広さの書店があって、そこで本を買ってから待合室へ行き読み始めることも良くあります。この本も、そのようにして、大学病院の構内の書店で買い求めて、診察室に呼ばれるまでの待ち時間に読みふけりました。
 この本は、2003年に出版された本の文庫化です。私がブログ『内田樹の研究室』で内田樹を知る以前に書かれた文章ということになります。「語り下ろし」というスタイルで作られたという本書は、ブログで読む現在の筆者の語り口と変わりません。(ちなみに、「語り下ろし」というのは、編集者に向かって話したことをテープ起こししたものに筆を加え体裁を整えるという形で本を作る形態のことのようです) 読み慣れた語り口は心地よく、その語り口を読むだけでも楽しみを得ることが出来そうです。
 本書で印象に残った逸話のひとつは、「ハンカチ落とし」についての考察です。筆者は「今の子どもたちは、生まれてから育っていく過程でどんどん身体感受性が鈍感になるような環境におかれています」(p.127)と嘆いています。しかし、それは「自己防衛上ほんとうに必要な知覚情報までとりこぼすことになりかね」ない(p.128)と言います。そのような知覚情報を磨く「子どもの遊び」が「ハンカチ落とし」です。自分の背中に落とされるハンカチを、視覚や聴覚などの五感では察知できない「何か」を察知しなければ、ゲームに負けてしまいます。その察知する「何か」というのは「鬼」の心に浮かんだ「邪念」であると筆者は指摘します。続けて筆者は「邪念」を察知するということは、何も超能力ではなく、オニやまわりの子どもたちの、緊張したときの心拍数の上昇や発汗、浅い呼吸、体臭の変化などという物理的科学的情報であると説明します。
 現代人が失ってしまった人間が本来持っている(持っていたはずの)情報検知力があるのだという話は、目新しいものではないかもしれませんが、「ハンカチ落とし」という遊びにそのような意味があったのかと思うと興味深く感じます。現代人が失ったというのと同じように、「子どものころ持っていた能力が大人になって失われてしまう」という話型にも通じています。
 この手の話に心惹かれるのは、「努力して開発する能力ではなく、もう既に本来持っているのに使っていない能力」というところに、努力するのが嫌いな怠け者には耳に心地よいからなのかもしれません。
 この本で、印象に残ったもうひとつの逸話は、「書物について」という文章で書かれている話です。インターネットの時代になってもこの先、書物はなくならないだろうという筆者の予想が述べられています。本は、自分の読んだ本が本棚に貯まってゆき、自分の知識が貯まってゆくのが実感されるということが良いところだと書かれています。私も、本棚に読み終えた本を並べてひとり悦に入っているクチですので、筆者の言うことはよく分かります。大概の本は、一度読んでそれっきり、内容も大方忘れてしまったものがほとんどです。それでも、背表紙を眺めると、ぼんやりと内容が思い出せなくも無いように感じます。
 私の心に引っかかったのは、その章のもう少し先の筆者の指摘です。

ある種の「愛読者」というのは、その人の「新しい話」を読みたくて本を買うわけじゃない。むしろ「同じ話」を読みたくて本を買うんだと思います。
 さらに筆者は、次のように論を進めます。
快楽はある種の反復性のうちに存する。これを洞見と言わずして、なんと言いましょう。(中略)こういう本を作るときの要諦というのも、やはり「だいたい同じで、ちょっとだけ違う」ということだと思います。
 上品な笑い話、あるいは、よく出来た落語話を聞いたような笑いを引き出されました。一歩間違えると読者を馬鹿にしたようなもの言いに聞こえなくも無いですが、そうです。まさにいつと同じ語り口の内田樹の本が読みたくて、私はこの本を買ったのですから。

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2007年4月20日 (金)

『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』 内田樹著

『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』 内田樹著 昨日、今日と通勤電車の中で読みました。
 10章あるうちの8章が、ブログの記事をまとめたもので、すでにブログで読んでいた文章も少なからずありましたが、読みやすく知的で面白い本でした。副題にあるように教育再生論、教育論なのですが、ユニークな視点、切り口で、堅苦しさが無く、先へ先へと読み進めさせる面白さがあります。『下流志向』を読んだときと同じで、途中で本を閉じるのが、もどかしく、一気に全部読んでしまいたくなります。(今回は、『下流志向』を読んだときのように、遅い時間まで読みふける事は、翌日仕事がある平日だったので自制しました!)
 「顰に倣う(ひそみにならう)」の例え話が、とても印象的でした。(第4章「大学がつぶれてしまう」どうして仏文科は消えてゆくのか

呉越の時代、呉王夫差の寵愛を一身に受けた美姫に西施という人がいた。西施は「持病の癪」のせいで、歩くときに胸を押さえ、眉をひそめていた。その姿もまた美しく見え、その柔弱たる風情で彼女が呉王の寵を得たという風説が広まったために、後宮の女官たちはこぞって眉をひそめて歩くようになり、やがて呉国中のすべての女たちが眉をひそめて歩くようになった……というお話である。
 この「顰に倣う」に例えながら、昔は社会的地位のある人は(たまたま)教養があったので、人々は皆、教養を身に付けようとしたのである。しかし、教養があることが、社会的地位を得たり高給を得る条件ではない。それは、いまも、昔も、変わらない……、と筆者は指摘します。
 なるほど、そうかもしれません。
 私もまた貧乏な庶民の家庭に生まれて、教養とは縁遠い環境に育ったため、教養のある人に憧れ、教養を身に付ける事を美徳と考えてきました。しかしその結果私が経済的に豊かになることは、ありませんでした。教養も身につかなかったからだともいえますが……。そしていまや、昔ながらの教養の価値は、社会的にどんどん下がっているような風潮が、私には面白くありませんでした。
 しかし、だからと言って、私の中で「教養」というものにたいする価値は、決して下がりません。やはり、歴史や文学に造詣の深い人を私は尊敬するし、そうゆう人になりたいものだと思うのですが……。
 もうひとつ、興味深く思った話は、最後の章10章で語られた話です。大学のレベルが全体的に落ちているために、息子は父親が卒業した大学よりも「いい大学」に簡単に入れてしまうようになっているという指摘です。子どもにとっては、それでひとつの目標である父親を超える事を達成したと感じてしまうが、実際は父親よりも学力が高まったかどうかは分からないわけです。この構造がとても興味深かったです。自分には子どもがいませんので、実感としてはわかりませんが、自分の子どもが自分の入った大学よりも良い大学に入れば親としてはうれしい事でしょうし、教育の成果を感じ取る事が出来るでしょう。しかし、それが、日本全体の若者の学力低下の恩恵であるとすれば、喜んでばかりもいられないことでしょう。それとも、重要なのは飽くまでも相対的な位置であるので、ブランド大学への子息の入学は、昔と変わらない価値なのでしょうか。

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2007年3月24日 (土)

『下流志向』 内田樹著

『下流志向』 内田樹著 昨夜、アマゾンで買ったモノが届きました。夜の10時くらいから読み始め、熱中してしまい夜中の2時半まで読みふけって読破しました!
 とても、面白い内容でした。
 一部、ブログ『内田樹の研究室』にも書かれていた内容と重複する部分もあり、既に読んでいた内容もありましたが、新しくユニークな分析は大変刺激的で興味深く読みました。

■第一章:学びからの逃走
 「学びから逃走」する子どもたちは、「不快という貨幣」と「教育というサービス」を等価交換しようとしている、という説明は新鮮で刺激的です。
 「不快は貨幣として流通する」ということを、子どもたちが学ぶのは、家庭の中で、親を見ておぼえるのだと、内田樹は言います。父親が働いて疲れ果てて帰ってくる。父親は、不機嫌を家に持ち帰ることで、家計を支えていることを象徴的に示している。そして母親は、「他の家族の存在に耐えている」ということで、家庭内において記号的に自分の家族への貢献を示している。
 そんな家庭の中で、子どももまた勉強や塾通いといった「おつとめ」の疲労感と不快感を全身で表すことによって、家庭での自分の存在を示さなければならない。
 そのように、とても悲劇的な家庭のありさまを原因として筆者は指摘しています。

■第二章:リスク社会の弱者たち
 山田昌弘の『希望格差社会』に出てくる「パイプライン・システム」と言う術語に触れて、パイプライン・システムに亀裂が入り「漏れ」が生じていることからリスク化と二極化が進んでいるという山田昌弘の理路を紹介しています。そして、内田樹が言うには、階層ごとにリスクの濃淡があると指摘しています。
 上層家庭では、その家庭の地位は努力の結果であるとして努力が報われるものと信じる事が出来、それゆえに上層家庭の子どもは、努力をするであろう。しかし、下層の家庭では、努力が報われずに現在の家庭の地位があると考え、努力は報われないものという考えに支配され、「勉強なんかしても意味が無い」と言う考えに、親子とも行き着くであろう。そのように、筆者は説明します。下層の家庭の子どもほど、「努力しても意味が無い」と言う考えにとりつかれやすく、そして格差はより広がってゆくという訳です。
 このようなリスク社会で、リスクヘッジとなるのは、期待しない結果となったときの結果責任をシェアできる相互扶助的集団をどのように構築できるかにかかっていると、筆者は指摘します。
 最近流行ったテレビドラマの『華麗なる一族』でもそうでしたが、閨閥を利用して家族がお互いに利益を得たり助け合ったりする事は、社会の上層部では常套的な方法であったでしょう。そして、筆者が言うには、そのような親族の助け合いは、いまから数十年まえの日本では、広く一般的であったのではないかと、筆者自身の親戚付き合いの記憶から示唆しています。
 ここで思い出したのは島田裕巳の『不安を生きる』に書かれていた、慶応大学の同窓会「三田会」についての話です。慶応の出身者は「三田会」のネットワークで強固に助け合っていることが書かれていました。
 私は、大学の同窓会も、高校の同窓会も、その活動にまったく興味を持っていなくて、同窓会の人脈を活用しよう等とは考えたことも無く、ブランド大学の実力は、慶応の三田会のような人脈力にあるのかと感心しました。
 リスク社会に必要なリスクヘッジは、どのような相互扶助的に所属するかと言うことである事、大変興味深かったです。
 
■第三章:労働からの逃走
 「近代までヨーロッパでは貧しい階層の親たちが子どもを幼児期から労働力として使役するのが当然だった」と言う筆者の指摘は、忘れていた事実を思い起こさせる以上に、現実を照らし出しました。
 最近の格差社会の進行を指摘されるにたびに、歴史の逆行は放っておけばいくらでも逆行するのではないかと私は考えています。このまま、労働経済的な逆行が進めば、かつてのNHKドラマの『おしん』のように、また再び子どもが労働力として使われる日がやって来ないとは断言できないのではないかと、心配しています。

 『人間はつねに自分が必要とするより多くのものを作り出してしまう。その余計に作り出した部分は、いわば個人から共同体への「贈り物」なのです』と筆者は述べ、労働は本質的にオーバーアチーブであると言います。
 「労働は等価交換ではない」と、繰り返し筆者は述べます。しかし、労働から逃走する若者は、自分の労働が等価交換され、努力に等価な成果を求め、それが得られないから、そんな不合理な労働はしないと考えているのだと推察します。

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